医療者の正義を患者に押し付けることに正当性はあるのか?

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意図的に少々過激なタイトルにしてみました。ただし、これは本質的な問題提起であると私は考えています。安楽死反対派の主張を聞いていますと、医療者の正義を前提とした議論が極めて多いのです。ここでいう正義とは、「どのような治療が正しいか」という意味です。

刑事ドラマでは、正義とは何かということをテーマにした話が時々あります。絶対的正義などというものは存在せず、立ち位置により正義は変わるという話です。医療の世界においても、絶対的正義というものは存在せず、立ち位置により正義は変わる、つまり医療者の正義と患者の正義は同じではないと私は考えます。

ただし、医療者の正義を患者に押し付ける適切な度合い、言い換えれば、 医療者が治療方針に関与する適切な度合いは病気のステージにより異なると考えられます。 私は次のように考えます。

急性期:医療者の関与の度合いが高いことが適切
慢性期:医療者の関与の度合いは急性期より低下し、患者の意向を踏まえて治療方針を決めることが適切
終末期:医療者の関与の度合いは更に低下し主導権は患者が握ることが適切

安楽死反対派は、終末期の緩和ケアの重要性をしばしば指摘します。緩和ケアについて十分な説明をすることは極めて大切ですが、緩和ケアを患者に押し付けるような説明をするべきではないと私は考えます。つまり、終末期では医療者の正義を患者に押し付けてはだめなのです。

医療者と患者は対等の立場であり、患者は遠慮なく自由に質問できなければなりません。患者には十分な情報が与えられていなければなりません。医療者がするべきことは、どのような選択肢があり、それぞれの長所短所を説明することです。終末期においては最終決定権は患者が有するべきです。医療者は、法律に違反しない範囲内で、可能な限り患者の意向に沿った終末期の治療をするべきです。

緩和ケアは患者の苦痛を軽減しますが、すべての苦痛が完全に消失するわけではありません。緩和ケアが実施されていても、患者が強い苦痛を訴えた場合はセデーション(鎮静)が検討されます。セデーションが実施されると、意識レベルが低下して眠っているような状態となります。

ただし、セデーションの開始時期は現在の日本では患者の希望のみでは決まりません。医師一人の判断でも決められません。通常は、医療スタッフを含めたカンファレンスで決定されます。

以下は、膵臓癌の末期患者のセデーション開始を認めるかどうかの討論です。書籍(だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語)より引用します。

「ええと、話を聞いている感じだと、私は彼女に『耐え難い苦痛』があるのかということがよくわからないんです。呼吸が苦しくてあえいでいるとか、痛くてのたうち回っているとかだったらわかりますけど、笑顔で会話もできて、吐いてしまうにせよ食事もできて、歩くこともできている。それって『耐え難い苦痛』がある、って状況なんでしょうか」

…中略…

「いえ、動ける、動けないにかかわらず、彼女には『耐え難い苦痛』があります。だって、月曜日の時点で彼女は昼も夜もなく二時間おきに起こされてトイレに駆け込み、嘔吐をし、それでも止まない吐き気に苦しめられてきました。これを耐え難い苦痛と評価しないで、何が耐え難い苦痛でしょう。」(No.2081)

このカンファレンスの結論は、「現時点ではセデーションを適用する状態ではない。ただし再び月曜日のような状態に戻った時はセデーションを開始する」というものでした。患者は、カンファレンスの翌日に増悪したためセデーションが開始され、10日後にお亡くなりになりました。

重要な点は、カンファレンスで強硬に反対する人がいると、患者が強い苦痛を訴えていたとしても、セデーションが開始が遅れることが有り得るという点です。医療者に悪意はないのですが、結果的に医療者の正義が患者に押し付けられているように私には見えるのです。

患者の希望通りに治療していたら、医療が滅茶苦茶なものになってしまうという意見があります。確かに病気の急性期や慢性期においては患者の希望通りに治療する必要はないと私も思います。しかし、終末期においては、可能な限り患者の希望に添った治療が行われるべきなのです。

この患者は、「自力でトイレに行けなくなった時点」でのセデーションを希望していました。しかし、患者の希望する時点でセデーションを開始してしまうと、安楽死に近い治療となってしまうため、今の日本ではそのような治療は不可能なのが現実です。

一方、日本で安楽死が法制化されれば、そのような治療も可能になりますし、 終末期の初期に安楽死することも可能となります。

緩和ケア医は、緩和ケアにより苦痛を軽減し、それでもだめな時はセデーションを実施して「自然な死」を迎えることが望ましいと主張します。しかしながら、私はこの「自然な死」という表現に違和感を覚えるのです。どこか、不自然な感じがするのです。また、セデーションは状況によっては死期を早めてしまう場合があることが指摘されています。

そのため、もう一つの選択肢として安楽死があるべきなのです。もちろん、安楽死で人生を終えることは「不自然な死」です。しかし、どのような死を不自然と感じるかは個人の死生観に依り、絶対的正解があるわけではありません。患者が選択できることが何より大切なのです。イギリスのホスピスの責任者も、終末期に安楽死が選択できることの重要性を訴えています。

安楽死反対派は、「社会的弱者が本人の意思に反して安楽死に誘導されてしまうことが有り得る」ため安楽死は望ましくないとしています。しかしながら、死が数日~十数日に迫った時期においては、あまり説得力のない主張であると私は思います。このような時期では、弱者とか強者とかはあまり関係がありませし、欧米と日本との死生観の違いもあまり意味を持ちません。

死を目の前にして「耐えることに何の意味も見出せない不毛な苦痛」を消し去りたいという人間の根源的な要求として安楽死があるのみです。このような時期においては、医療者の正義を患者に押し付けることに正当性があるとは私にはとても思えません。

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