#MeToo な季節の終わり

3/3(現地時間では前日)に発表される米国のアカデミー賞では、伊藤詩織監督の作品が長編ドキュメンタリー部門の候補になった。ところがご存じのとおり、日本での評判はいま、きわめて悪い。

伊藤詩織監督への批判|喜多野土竜
◉伊藤詩織さんが、自身の経験を元にしたドキュメンタリー映画の監督となり、その作品がアメリカのアカデミー賞のドキュメンタリー部門でノミネートされたようですが───。あれほど彼女を称賛した日本のフェミニズム界隈が、あまり盛り上がっていません。この映画、制作手法に批判が出ており、朝日新聞もノミネートを報じながらも、その批判部...

性暴力の被害を訴えてきた彼女が、裁判以外では使用しないとの約束で入手したホテルの監視カメラの映像を、無許可で映画に流用していることが判明したためだ。こうした先例ができれば、今後は映像記録の「出し渋り」が起こり、他の性被害者が訴訟で不利になることが予想される。

そもそも昨秋にこの問題を告発したのは、訴訟時に伊藤氏の代理人を務めた女性弁護士だった。ところが伊藤氏は彼女を解任し(紛議調停で発言を封じようとしたとの報道もある)、自身に批判的な記事を書いた女性記者を名誉毀損で訴え、対して女性団体が伊藤氏に撤回を促す声明を出すなど、ものすごい展開になっている。

伊藤氏は当初、意に介さなかったようで、映画をめぐる寄稿でも問題には触れず、雑誌の側も(軽い断り書きを附しただけで)そのまま載せてしまう状態だった。ようやく2/20に公表された謝罪も曖昧な内容で、かつ18のオスカー投票〆切だったことから、かえって批判は強まっている。

「被害者性」で責任問題を消臭する 〜伊藤詩織「450時間の痛みを生き直す――なぜ『Black Box Diaries』を撮ったか」を読んで〜|シバエリ
2025年1月23日、ジャーナリスト・伊藤詩織さんの初の長編ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』が、米映画界最高の栄誉とされる第97回米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされました。 しかしこの映画は、伊藤さんの元代理人弁護士から、「裁判以外の場では一切使用しない」と誓約したうえ...

あたりまえだが、伊藤氏も女性である。男女のあいだでの争いを見たときは、内容を精査せず「女性に味方する」のが正しいといった、杜撰で危険な発想を批判してきたぼくも、そもそも誰が「女性の味方」であるのか、ここまで判別不能なカオスを目にするとは思っていなかった。

嘘でも他人を「ミソジニー」呼ばわりすることの意外な効用|Yonaha Jun
はてなブックマーク(はてブ)というサービスをご存じだろうか。利用者はどこのサイトに載った記事でもクリップして、コメントをつけることができる。他のユーザーが同じ記事につけたコメントも、一覧形式で読める。 コメント欄のない(か、利用者が限られる)記事に対しても、感想を寄せることができる便利な機能だが、実際には気に入らない...

笑いごとではないし、単に時事的なスキャンダルでもない。むしろ「いまという時代」に起きている、歴史の転換を象徴するトラブルであるように、ぼくには見える。

映画の基になった、伊藤氏が自身の性被害を綴った書籍『Black Box』が出たのは、2017年の10月。米国でもハーヴェイ・ワインスタインの性的搾取に対する告発が盛り上がるのと同時で、彼女が日本の #MeToo の象徴になるのは必然だった。

その果てに、どうしてこんな事態が起きるのか?

まだ #MeToo といえば「疑い得ない正義」の代名詞だった、2018年の6月の時点で、ぼくはこう警鐘を鳴らしている。

日本人がこれほど「自信」と「余裕」を失ってしまった歴史的理由(與那覇 潤) @gendai_biz
2011年に著書『中国化する日本』が大きな反響を呼び、「気鋭の若手論客」として注目された歴史学者の與那覇潤氏。しかし2014年に激しいうつ状態を体験し、翌年から大学を休職。2017年には離職する。その與那覇氏が、3年間の沈黙を破って今年4月に刊行した新著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』が、増刷で1万部を突破するなど...

「私こそがこの組織のすべてだ」という存在がいないのは、誰もその組織の責任を取らないことと、表裏一体だからです。
昨今話題の #MeTooの発端は、ワインスタインという凄腕プロデューサーが力で脅して、女優さんや女性スタッフをレイプしていたと暴露されたことですが、アメリカでは権力の所在が明快な分、女性が勇気をふるって告発して、彼は逮捕された。
しかし日本の場合は、セミヌード広告の撮影を「役得」とばかりに関連企業の社員がぞろぞろ覗きに来るとか、特定の誰かに帰属しない「空気」みたいな形で人を搾取するから、誰をどう裁けば問題をなくせるのかが見えにくい。
その違いを考慮に入れずに、「海外の進んだ #MeTooを日本にも!」と叫ぶだけでは、平成に繰り返された「自己満足メインの運動」に終わらないか、とても心配しています。

強調を附し、段落を改変

被害者が顔と名前を出した上で、これまた顔と名前を持つ加害者を告発する #MeToo は「絵になる」。主人公と悪役が明快だから、メディアがストーリー化しやすいし、もし事実として悪事が行われ、責任の所在もまちがっていないのであれば、大きな成果を上げるだろう。

ところがそうした物語の形になりにくい、特定の個人というより場や関係そのもの(難しく言うと構造)が加害を誘発している場合、安易なストーリー化は逆に問題の本質を見えにくくする。最悪の場合は、むりやり誰かを「悪役」に据えて(いわゆるスケープゴート)、冤罪を生むこともある。

後から訂正しなくてよい記事を書くための、たったひとつのポイント|Yonaha Jun
「善玉と悪玉」がころころ入れ替わるような世相が、続いている。 最近影が薄いけれども、昨年の11/17には兵庫県知事選挙の番狂わせが大騒ぎになった。選挙の前後も含めて、メディアの論調の変化をざっくりまとめると、こんな感じになる。   ①パワハラ疑惑で失職した斎藤元彦に、勝ち目なんか絶対にない → ②大逆転でのまさか...

それはあらかじめわかってはいたけど、当時から7年ほど経って、事態は予想よりも遥かに斜め上というか、下を進んでいるように見える。

2024年の末から世相を揺るがす、中居正広氏とフジテレビのスキャンダルは #MeToo ではない。被害者は匿名で、加害者との和解の際に守秘義務を結んでいるから、なにが起きたのかはまったくわからない。だけどそちらの方が、TV局を潰しかねないと言われるくらい、「顔と名前」を出しての個人の告発よりも、社会を動かしてしまう。

「構造」にさえ働きかければ、個別の物語の中身は空っぽでもかまわないといった話が、ポストモダン華やかなりし1980年代には、ゼロ記号とか空虚な中心とか、楽しそうな語彙で語られた。だけど「内容は不明ですが、会社が潰れます」というのは、相当に不気味な事態である。

フジテレビ・中居くん問題を生んだ「終わらない80年代」|Yonaha Jun
連日、メディアは中居正広氏のスキャンダルに端を発する「フジテレビ問題」で大荒れだ。1月27日の会見では社長・会長の辞任が発表された。 フジテレビ 港社長と嘉納会長が辞任 社長後任に清水賢治氏 | NHK 【NHK】中居正広さんと女性とのトラブルに社員が関与していたなどと週刊誌で報じられたことをめぐり、フジテ...

一方で、主体的に #MeToo に踏み切る意志を持つ「強い個人」こそが、世の中を変えていくとする発想は、モダンがポストになる前の「近代主義」だ。空気に呑まれる日本の場合、そうした意味での近代社会がそもそも脆弱だったので、顔と名前を出す告発者は、その時点で注目を集める。

まして近代の本場である欧米に伝われば、自らの同胞たる「近代人」が、前近代の野蛮な地域(日本)で戦っている! といったストーリー化はすぐ起きる。そうしたギャップを放置した果てが、今回のアカデミー賞トラブルだと見る向きもある。

伊藤詩織の「二つの顔」:破滅へのカウントダウン
伊藤詩織が監督したドキュメンタリー「Black Box Diaries」が第97回米アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、受賞の下馬評が高まっている(授賞式は2025年3月2日)。 彼女は性暴力被害者としての経験を実名...

しかし内外のメディアの注目が、単なる「キャラの立った個人」のスポイル(甘やかし)に終わるなら、結局は元の木阿弥だろう。「俺は人気タレントだから、ルール違反も許される」というのと、理屈としては同じだからだ。

実際に以下の記事によると、自らの映画への批判者を訴えた伊藤氏側の主張は、「映画がもたらす公益がさまざまな事情よりも上回る」というものらしい。要するに、世界が注目する告発者=監督の作品なんだから、細かいクレームは無視していい、と言っているようにしか伝わらない。

伊藤詩織さん監督映画めぐる双方の主張は? 元代理人は「承諾ない部分は修正を」、監督側は「指摘は不正確」と反論 - 弁護士ドットコムニュース
米アカデミー賞・長編ドキュメンタリー映画賞のノミネート作品を決めるためのショートリストに、ジャーナリスト・伊藤詩織さんの初監督作品『BlackBoxDiaries』が選ばれた。日本人監督が同賞のショートリストに...

もともと日本に基盤のなかった近代は、#MeToo の時代もやっぱり素通りし、マイナスの爪痕だけを残していった。その後に続くのは、日本だけでなく世界中でも、ファクトもルールも関係なく勢いだけで社会が転覆される、これまたダークなポストモダンの嵐だった。

「紅衛兵」の時代がふたたび来るのか?(ニッポン放送・私の正論に出ます)|Yonaha Jun
ニッポン放送の名物コーナー「私の正論」の収録に行ってきました。前々回の記事で村松剛に触れたタイミングで、彼の旧著と同じタイトルの番組からお声がかかるとは、奇縁を感じます。 1976年刊。 個人的には史論や文芸評論に比べて、 村松の正論(政論)はイマイチですが… 昨年末刊の『正論』2月号に寄せた「斎藤知事再選と「推し選挙...

少なくともあのとき、#MeToo の可能性を雄弁に論じ、まねごとのハッシュタグに興じた人たちは、いまこそ口を開いて語るべきだ。それを抜きにして女性の権利はもちろん、ぼくたちの社会にあらゆる進歩などない。

(ヘッダーは海外でのポスター。集英社オンラインの記事より)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年2月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。