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仕事場の作業環境を入れ替えるため大掃除を始めたら、ジッパー付きのビニール袋や紙袋に詰められたままの現像済みフィルムが大量に発掘された。10年ほど前にハードディスクがクラッシュしてデジタル写真が数百枚も消え失せてしまったというのにフィルムはしぶとい。
これらの中に、ライカM6というカメラで撮影したのをはっきり覚えているフィルムがあった。
ヴェトナム戦争で従軍カメラマンが使っていたカメラと大して変わらないライカM6は、ファインダーをじっくり見て撮る仕組みになっていないうえに、そもそもファインダーの正確さが低い。そこで被写体までの距離に目測で見当をつけたらレンズの目盛りを合わせ、構えると同時にシャッターを切る。自ずと予想外な何かが偶然映り込んでしまう。こんなライカM6が目的にぴったりに思えて、あるテーマでスナップ写真を撮影していたときのフィルムが出てきたのだ。
テーマはとても個人的なものだった。1990年代に知り合いの女性がオウム真理教の信者になった。1995年、地下鉄サリン事件が発生。そして教団施設への強制捜査が行われ出家信者は散り散りになり、知り合いだった女性も行方がわからなくなった。きっとサティアンと呼ばれる教団の施設に居るだろうと思えるのと、教団が無くなりどこへ行ったかわからないのとでは、この人をめぐる感覚に大きな違いがあった。
人探しをしているつもりはなくても、東京の街を歩いているとこの人が居そうな気がしたり、逆に居るはずがないと感じる。こんなときシャッターを切るのが自分に課したスナップ撮影のテーマだった。ただし他の写真のように日付や場所を書き添えて現像済みのフィルムを整理する気にどうしてもなれず、さりとて捨てられもせずフィルムを仕舞い込んだ。このため発掘されたフィルムが数年間に渡って撮影したスナップの一部であるのはわかっていても、いつ撮影したものかはっきりしない。
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それでもフィルムが入っていた袋の様子から、撮影したのはたぶん1998年だ。雨が降っていたように見え、修学旅行らしき中学生がいるので6月ではないだろうか。ふと思い立って調べてみたら、この年の梅雨入りは6月2日だった。
撮影テーマをかなり意識して東京タワーへ向かったのは間違いないので、元信者の境遇を思うと演出を考えている自分が嫌になって、フィルムを袋に詰め込んで忘れようとしたのだろう。そんな気がする。
ここで一言だけ言い添えておかなければならないのは、現在と違い当時はスナップ撮影が写真表現のジャンルとして認知され、撮影する側とされる側に暗黙の了解があったことだ。
写真を発表する場は写真専門誌やギャラリーなどに限られ、高解像な写真がインターネットにアップロードされたり、見知らぬ人に改変されたり転用されるのを恐れる心理が世の中にはなかった。なお被写体がはっきり特定されるものについては、当時でも相手に声をかけている※注1)
さて私がすっきりしない気持ちを引きずって写真を撮影していたとき、他の人たちはどうだったのかといえば、たぶん地下鉄サリン事件だけでなくオウム真理教にまつわる出来事はすべて過去のもので、終わった話だったのではないだろうか。
というのも、事件後も超常現象や心霊現象などオカルトを「科学では解き明かせない」「解明が期待される」と前置きしながら興味本位の姿勢で題材にするテレビ番組が人気だった。あれはあれこれはこれ、といったところだろう。
あれはあれこれはこれは、オウム真理教についてだけではなかった。
東京タワーで撮影したのが1998年で間違いないなら、バブル崩壊後の影響がはっきり家計の変化となって現れだした時代の、日本人の様子が記録されていることになる。正規雇用者が減少して非正規雇用者が増加し、賃金水準が低く抑えられたままになり、可処分所得が減少して家計最終消費支出が頭打ちになり、預金残高も増えなくなった現実を目の前に突きつけられていたときの人々の様子だ。
だが変化を深刻に捉えていた人は少なかったのではないか。また真剣に考えなかったので、変化が何をもたらすか理解できなくて当然だった。
この年、東京スカイツリーが着工されている。東京タワーも模様替えをしたほか、石井幹子デザインのライトアップを始めた。展望台から東京を見下ろすと、足元の芝公園で『ザ・プリンス パークタワー東京』の工事が始まっていて、すぐ横にある桜田通りは以前同様に渋滞していた。
このほかにも都内で様々な再開発計画が準備段階であったり始動しており、2年後には六本木ヒルズが起工。レインボーブリッジの通行が始まって5年、東京湾アクアラインは前年に開通しているといった華々しい話題に満ちていたのだ。
だが、それまで年間おおむね2万5千人以下だった自殺者が、1998年に3万人台へ一挙に増加して、この状態が2011年まで続いた。またセクハラや不登校や引きこもりが問題になり始めていた。だがそれでも人々は、あれはあれこれはこれだった。
東京タワーを見物していた15歳の修学旅行生たちは、いま42歳のはずで就職氷河期世代の末尾世代になるのではないか。そして彼らの青春期から青年期は、前述のように華やかな再開発事業があったいっぽうで正規雇用が壊滅状態になり、可処分所得も減り、自殺者だけは減らない時代で、二十代半ばでリーマン・ショックを経験することになった。
修学旅行の中学3年生が彼らの時代となる21世紀を予測できなくて当然だった。でも彼らを社会へ送り出した大人たちまで、過酷な時代が続くとは夢にも思わなかったと言って許されるはずがない。
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スナップ撮影のきっかけとなった元信者の女性と再会して当時を振り返ったのは、安倍晋三氏が暗殺され旧統一教会追及が苛烈さを増した2022年の夏の終わりだった。
彼女が語る20余年は一つひとつの言葉が複雑な感情から激しくほとばしり、洞察はどこまでも冷徹だった。元信者というだけであまりに世間からつまはじきにされたため、東京タワーの展望台から下界を見下ろすように世の中と自分の人生を観察するほかなかったのかもしれない。
オウム真理教が済んだ話とされた割に、日本の社会に信者や宗教への誤解と偏見が根強く残った。このような世の中で、彼女は人々の暮らしが追い詰められていった時代を生き抜いてきた。激しく嫌い、厳しく反省を求め、すべてに従っても許そうとしない世間が、自分たちの無関心と失敗には甘かった。人は等しく愚かなのを認めようとしない、だからこうなると彼女は言った。
このときの彼女の言葉が、仕事場の大掃除で見つかったフィルムを見た感想に影響を与えている。
東京タワーでのスナップから11年後、民主党政権が誕生する。世の中は埋蔵金と事業仕分けに興奮したが、瞬く間に口蹄疫の混乱に落ちていった。前述のように収入が伸びず、家計が苦しみの底で喘ぎ、ずっと自殺者が3万人台で推移していたというのに、野田佳彦が消費税の税率を5%から8%、10%へと2段階で引き上げると決めた。
震災と津波によって原発事故が発生したときは、送電線で届く電気を呑気に使っていた首都圏の人々が被災地を責めた。東京タワーから電波を飛ばすだけでなく、きれいにライトアップするための電力も頼り切っていた人々と政治家が被災地を追い詰めたのである。
放射能と被災地を穢れとした後は、安倍晋三を諸悪の根源とした。それはもうオウム真理教の麻原彰晃のような扱いだった。安倍は殺された。でかしたと言い出す輩まで登場した。しかし、それでどうなったのか。
「安倍さんだけでなく、いったい何人の方が亡くなったのでしょうか、殺されたのでしょうか」と元信者の女性はぽつりとつぶやいた。「末端信者で何がどうなっていたかわからない私も、オウムは人を殺したじゃないかと言われます。私は反論しません。する必要もないし、したところで政治や経済の影響で死んだ人は生き返りません」
30年前にオウムの時代は確かに終わった。だが何も終わらず、改善されることなく時代は続いている。これからも、人は愚かだからしかたないと言い続けるのか。
愚かだからこそ、愚かさを自覚した上でやらなければならないことがあるのではないか。
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※注1)
ジャンルとして確立され多様な作品が発表されていたスナップ撮影が、盗撮行為と呼ばれるようになるのは2000年代に入ってからだ。
2004年、雑誌に掲載されたストリートファッションの定点観測写真が匿名掲示板で中傷され、これによって精神的苦痛を強いられた女性が肖像権の侵害を訴えた裁判で35万円の損害賠償が認められた。以後、写真家は報道目的であっても公共の場で人物をありのままに撮影するのを避けるようになった。
当記事では時代の状況や社会の風潮をありのままに伝えるため、30年前に撮影された写真から個人の特定が不可能なカットを使用した。
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2025年3月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。