トランスジェンダー女性は、もう「無敵」でなくなったのか

まだアメリカが民主党のバイデン政権だった1年前に、こんな記事を書いた。安易に「意識の高さ」を誇ろうとする演出があだになって、アカデミー賞授賞式が炎上した不祥事を扱う内容である。

資料室: 1978年のアカデミー賞授賞式(多様性とポリコレの前、いかに世界は真剣だったか)|Yonaha Jun
近年トラブル続きの米国のアカデミー賞が、今年も情けない次第になったことはよく知られている。3月10日の授賞式では、助演男優賞と主演女優賞の受賞者(ロバート・ダウニー・Jr とエマ・ストーン)が「アジア系のプレゼンターを無視した」として批判を浴びた。 皮肉なのは運営側の、ダイバーシティの象徴として「多様な人種からなる5...

ご存じのとおり、いま共和党のトランプ政権は、むしろそうした「ダイバーシティはキラキラしている☆」といった風潮を全否定すべく、敵意をもってDEI(平等化政策)の排除に乗り出している。そんななか、今年もアカデミー賞がやらかしたのは、正しく時代の象徴になったかもしれない。

こうしたことは、記録に残さないと記憶からも消えていくので、後世のためにまとめておこう。

今年の本命と呼ばれていた作品は、ヘッダー写真の『エミリア・ペレス』。本人もトランスジェンダー女性を自認する俳優が、性転換して女性になる主人公を演じて「主演女優賞」にノミネートされた。発表時には、トランプ政権に屈しないというメッセージとして、好意的に報じられた。

ネタバレになるから伏せるけど、1992年に見事な「女性」を演じた男性俳優は、助演男優賞で候補になった(知りたければこちら)。2007年の『アイム・ノット・ゼア』で、男装してボブ・ディランを演じたケイト・ブランシェットも、あくまで助演女優賞でのノミネート。トランス女性が「女優賞」で候補になるのは、画期的なことだった。

トランス女性、初の主演女優賞候補 トランプ氏に迎合せず―米アカデミー:時事ドットコム
【シリコンバレー時事】第97回米アカデミー賞の主演女優賞候補になっているスペイン人俳優カルラ・ソフィア・ガスコンさんが注目を集めている。出生時の性別と性自認が異なるトランスジェンダー女性として初めて同賞にノミネート。トランプ大統領が「性別は男女のみ」とする政府方針を打ち出したが、投票権を持つアカデミー会員は迎合しない姿...

ところがその後、この人が過去(といっても2020~21年)に、ムスリムや黒人、アジア系など他のマイノリティへの差別発言を連発していたことが判明した。スペインの俳優なので、ハリウッド側のチェックが甘かったらしい。

ノミネートの剥奪こそなかったものの、映画を配給するNetflixは一切のサポートの拒否を表明し、誰も彼女に好意的な態度を見せたくないということで、授賞式の演出まで変更になった。要は捨てられたわけで、むろん賞も他の人が受賞した。

性的少数者まさかの黒人差別でハリウッド大混乱
ミュージカル映画『エミリア・ペレス』への出演でアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたトランスジェンダーのカルラ・ソフィア・ガスコンが、過去のムスリムや黒人に対する差別的コメントにより、事実上、ア…

この事件が起きるまで、キャンセルカルチャーと言えば「トランス差別」をした(と見なされた)人に対して発動されるものだった。しかし今回の顛末を受けてむしろ、『エミリア・ペレス』はこのトランスジェンダー女性に対するキャンセルで、作品賞まで逃したとさえ報じられている。

つまり潮流はいまや、180度逆転したのだ。そしてそれは、差別の問題を真剣に考える人にとっては、なんら驚くべきニュースではなかった。

人気司会者ビル・マーがアカデミー賞について語る「『ANORA アノーラ』の受賞はキャンセル・カルチャーが影響している」
アメリカの人気司会者で知られるビル・マーが、2025年度のアカデミー賞の結果について独自の見解を語った。ビルは『エミリア・ペレス』が賞を総なめにするはずだったと発言し、… 

エズラ・ミラーという俳優がいる。細面なハンサムで、かなり人気のあった(たぶん)男性なのだが、本人は自身をトランスジェンダーだと認識している節もあるらしく、2022年にはすでに不品行が騒動となっていた。

なにせ女性を犬扱いし、口答えするならトランス差別だからナチスと同じとまで言い放ったというから、すさまじい。被害の規模がだいぶ違うとはいえ、「ウクライナで抵抗しているのはネオナチ」と公言する某国の独裁者(ただし、遠からず復権予定)を思い出させる。

映画『ファンタスティック・ビースト』のエズラ・ミラー、ホロコースト生存者の子孫を「ナチス」と侮辱
今年3月にハワイで逮捕されて以来、事件が続いているエズラ・ミラー。あるドイツ人女性がエズラとのトラブルを雑誌に告発、物議を醸している。

ミラーはナディアに「座れ」と命令したそう。ナディアが「犬に言っているみたいだ」と怒るとミラーは「ああ、俺は犬に話している」と返答。ナディアが「そういう風に話すなら部屋を出ていって」と求めるとミラーは彼女を「トランスフォビアのナチス」と罵ったという。

ナディアはナチスのホロコーストを生き延びた人の子孫。そのためこの言葉にとりわけ大きなショックを受けたという。

「私はミラーに私がホロコーストの生存者の子孫だと話したのを覚えているかと尋ねた。するとミラーは私に向かって『覚えている。でも俺の家族は何人死んだ?』と言った。これを聞いて私は『ああそうか、これは誰が一番トラウマを負っているかというゲームなんだと思った』」。

強調を付与し、段落を改変

実はこの人が出た『ウォールフラワー』(2012年)は、14年からぼくが病気で働けない間に見て印象に残り、励まされた映画のひとつだった。そこですばらしい演技を見せた人が、いつしかこうしたほとんど「無敵の人」の状態で、ハラスメントを続けていたと知ると、暗鬱な気持ちになる。

こうした映画界のスキャンダルの教訓は、たとえばトランス女性といったなんらかの属性を根拠に、批判したら差別になるからと相手を黙らせるポジションを作ってはいけない、ということだ。それは、単なる芸能ゴシップにはとどまらない。

ジョージ・クルーニーといえばNo.1のハリウッド・スターで、熱心な民主党のサポーターとして知られる。しかしいまや彼を扱う記事でも、遠回しながら、トランプ再選を後押しした要因のひとつが「トランスジェンダーの 無敵化” への反発」にあったと認めているように見える。

ジョージ・クルーニー、民主党がトランプに負けた理由を述べる - THR Japan
ジョージ・クルーニーが2024年大統領選における民主党の敗因について語った。

彼の見解では、「政策が不人気だったのではなく、メッセージの伝え方が効果的でなかった」という点が問題だった。……バイデン自身の発信力の低下も影響したとクルーニーは指摘している。

選挙の数ヶ月前に行われたギャラップの世論調査では、移民、犯罪、ホームレス問題、インフレが有権者の主要な関心事であり、カマラ・ハリスの支持率はバイデンが撤退する前から控えめだった。また、選挙運動中で最も効果的な広告は、トランプがトランスジェンダーの権利を巡る議論を武器にした広告だとされている。

日本人が洋画を見なくなって久しく、今月のアカデミー賞の話題もまた、この国では伊藤詩織監督のドキュメンタリーの当否(落選)に集中していた。しかしそれ以上に、今回の顛末は「時代の転換点」として、歴史に刻まれる可能性が高い。

#MeToo な季節の終わり|Yonaha Jun
3/3(現地時間では前日)に発表される米国のアカデミー賞では、伊藤詩織監督の作品が長編ドキュメンタリー部門の候補になった。ところがご存じのとおり、日本での評判はいま、きわめて悪い。 性暴力の被害を訴えてきた彼女が、裁判以外では使用しないとの約束で入手したホテルの監視カメラの映像を、無許可で映画に流用していることが判...

アカデミー賞の惨状が示すように、自分は特定の属性を持っているから、なにを言っても「被差別者の声」として聴かれる資格があり、批判するなら差別者だと言い張ってよい「無敵の人」(通常の意味とは違うが)のポジションを作ることは、かえって反差別の運動を弱体化させる。なぜか。

露骨な偏見の持ち主や、現体制を絶対視すると公言して恥じない反動家は、そもそも「あなたは差別者だ」と批判されても痛くも痒くもない。逆にダメージが大きいのは、私は差別のない社会をめざしますと主張するリベラル層だ。つまり「無敵の被差別者」の出現は、実際には差別をなくそうと取り組む運動を内ゲバ化させるのだ。

アカデミー賞やトランスジェンダーといった、「欧米の最先端の話題」を素材にするから新しく見えるだけで、そうした事態は日本でも先例がある。ぼくもまた以前から、はっきりそう述べてきた。

長い江戸時代の終わり

與那覇 個人のアイデンティティを政治イシューにする際には、憎悪や憤懣を煽る手法に陥らない配慮が必要です。70年代の社共共闘を崩壊させる一因になったのは、社会党の支持母体だった部落解放同盟と共産党の全面衝突でした(ローラ・ハイン『理性ある人びと 力ある言葉』岩波書店)。

そうした教訓を、いまハッシュタグ・アクティビズムで盛り上がる人たちが踏まえている気がどうもしません。

61頁(2022年8月刊)

1970年代から左派優位が崩れた日本と同様に、バイデン政権までは米国民主党を支えてきた、労働者・貧困層・マイノリティ・知識階層の連合も壊滅した。その最大の楔となったのがトランスジェンダリズムであり、トランプ政権の多様性への攻撃は、結果であって原因ではないのだ。リベラルな人ほど、見誤ってはならないと思う。

さて、このnoteの読者にはご存じのとおり、日本でもかように「無敵の人」を作り上げて内ゲバを繰り返し、社会の分断を煽り、本当の意味での多様性を衰弱させてきた人たちがいる。もちろん、トランスジェンダリズムの隠れ蓑として、2021年にオープンレターを振りかざした面々だ。

オープンレター秘録③ 一覧・史料批判のできない歴史学者たち|Yonaha Jun
学問的な歴史に興味を持ったことがあれば、「史料批判」という用語を一度は耳にしているだろう。しかしその意味を正しく知っている人は、実は(日本の)歴史学者も含めてほとんどいない。 史料批判とは、ざっくり言えば「書かれた文言を正確に把握する一方で、その内容を信じてよいのかを、『書かれていないこと』も含めて検証する」営みだ。...

トランプが支配する米国のようなディストピアを避けるためにこそ、ぼくたちは何度も彼らを蒸し返し、焼きを入れ続けてゆくべきだろう。それもRareではなくWell-doneで、ソースはハバネロを利かせたDiavolaが望ましい。

そうすることが、自由を強化する。少数者への偏見を減らし、勘違いした活動家が私欲で行うマイノリティへの搾取をなくし、正しい意味で誰もが尊重される、多様性の根づいた社会を作る。

次回の連載「オープンレター秘録」では、アメリカでいま如実に示されたトランスジェンダリズムの崩壊が、日本ではオープンレターの炎上に重なって進んだプロセスを、明らかにしたい。

オープンレター秘録① それはトランスジェンダー戦争の序曲だった|Yonaha Jun
日本文藝家協会に入っているのだが、会報(文藝家協会ニュース)の10月号に、小説家の笙野頼子さんがコラムを寄せていた。タイトルは「続・女性文学は発禁文学なのか?」。 「続」とあるのは、2021年の11月にも、笙野氏は同じテーマで寄稿しているからだ。「発禁文学」とは、同氏がトランスジェンダリズムに反対した結果、文壇でキャ...

ぼくたちは米国と同じ泥沼にはまる前に、引き返すことができる。そのために必要なのは、すでに燻し出されたニセモノの「反差別」を鉄板にのせ、火を入れながらの批判と検証を続けることだ。ぜひ、ご期待ください。

参考記事:

Blueskyという「遠吠えメディア」: オープンレターズは ”嘶き” 続ける|Yonaha Jun
「オープンレター秘録」はあと3回は続くのだが、新たな回を割くには矮小なネット中傷が行われたので、以下と同じく単発で手短かに。 BlueskyというSNSがある。イーロン・マスクが買収してXに変わって以来、「Twitterの居心地が悪い」と感じる人の引っ越し先のひとつだ(他にはMastodonとThreads)。とは...
速報!トランプ大統領子供の性転換治療禁止の大統領令に署名!!!!|苺畑より
🚨HUGE !!!! President Trump has signed an EO ordering the immediate halting of chemical castration & genital mutilation for minors. TRUMP: “I will declare ...
みんな口をつぐむ「トランスジェンダー」と「GID」、そしてフェミニズムの問題|シバエリ
現在、多くのサイレントマジョリティは、トランスジェンダーの問題に対して、「よくわからないけど、とにかく触らぬ神に祟りなし」と感じていることでしょう。 「マジョリティがそう思うこと自体がマイノリティへの差別」と思うような人権意識が高い当事者やアライの方もいるかも知れません。 しかし、個人的には、想像力と他者への配慮が行...
「公開感謝状」、無名作家から無名の勇者達へ、歴史修正に抗し新たな連帯を|鳥影社
 笙野頼子です。お正月に「小説家」への公開質問状を出して以来、ずっと水面下で働き泳ぎ続けていました。新刊『白内障完治年の老婆カレンダー』の再校が今一つ進まないほど活動していました。まあやっている事は論争家の時とあまり変わりません。そもそも文学を捨てるどころか、ますます生きる事と小説が同行してきます。しかしそんな中、とあ...

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年3月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。

preload imagepreload image