小林秀雄と江藤淳の「ライブかCDか」論争

2回前からの続き。発売中の『表現者クライテリオン』5月号には、辻田真佐憲さん・浜崎洋介さんとの「論客追悼鼎談」(後編)も載っています!

2024年に亡くなった3名を偲ぶイベントの活字化ですが、前編では伊藤隆・西尾幹二のおふたりがメインだったので、今回は「福田和也論」。ぜひ、多くの方の目に留まればと思います。

批評家・福田和也氏を悼む|Yonaha Jun
近年のポリコレ批評に苦言を呈する記事を出したその日に、福田和也氏の訃報が飛び込んで「うぉっ!?」と戸惑ってしまった。1960年生まれで、享年63歳。なによりもまず、ご冥福をお祈りする。 「右翼でファシスト」を名乗りながら、最左翼の思想誌だった『批評空間』にもよく出ていた。専攻はフランス文学だが、日本史・日本文学はむろ...

そこでの議論の鍵になる挿話について、せっかくなので再録しておきましょう。鼎談では私が持ち出したもので、初出は江藤淳・福田和也「対談・小林秀雄の不在」(『文學界』1996年4月号)。

江藤淳に見出されて飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃の福田氏が、あえて江藤に感ずる違和感も吐露しつつ、いわば「親離れ」のための師弟対談として行った形でした。江藤は99年の7月に自殺してしまうので、年少の世代との対話を通じて、彼の最晩年のメッセージを聞くことができます。

で、面白いのがここで――(本noteのタイトルは私がいま風にしたもので、もちろんCDでなくLPの話ですから、誤解なきよう)。

江藤:小林〔秀雄〕さんの真贋ということで話すと、……モーツァルトの「魔笛」や「フィガロの結婚」は、やっぱりウィーンやザルツブルグへ行って観るのがいいと思うんですね。それであるとき、小林さんは今日出海さんと一緒に英国女王の戴冠式の時〔1953年か〕にヨーロッパへ最初に行かれてグルッと回って帰ってこられていたし、これからも幾らだって行くことはできると思って小林さんに言ったことがあるんです。

「ウィーンで観るオペラというのは、あんな面白いものはありませんね。やっぱりモーツァルトはレコードで聴いたんじゃ分からないものがあると思います。……」

そしたら小林さん「ふーん」とニコニコと聞いていたけれど、「きみ、僕はレコードのほうがいいよ。モーツァルトはオペラっていうけど、モーツァルトはきみ、シンフォニーだよ。レコードがいい。だってシンフォニーならレコードで聴けるじゃないか」と。

それこそまさにベンヤミンなんです。

福田和也『江藤淳という人』新潮社、98頁
段落を分け、強調を付与
江藤の最初の訪欧は、1964年夏

最後の1行は、ベンヤミンの1936年の有名な評論を踏まえたもの。1993-95年に草稿『パサージュ論』の邦訳が出るなど、江藤・福田対談の当時は、まさにベンヤミン再評価のピークでした。

「複製技術時代の芸術作品」ヴァルター・ベンヤミン – artscape

なんで小林秀雄の話から急に飛ぶかというと、福田氏の発言にいわく、「一回的な……信仰的な美ではなくて、無限に複製されてばら撒かれて、物に取り囲まれている時代でもなおかつ人間は生き、感動する、その感動は何なんだ、ということを、小林さんはやった」から(92頁)、その批評はベンヤミンの論旨に通じる、というわけ。

議論はそこから、こんな風に続きます。

江藤:いや、とにかくね、オペラじゃなくてレコードが好きだっていうのは、あれはとっても示唆的だと思う。
(中 略)

福田:我々はフェイクであると。それはいいんです。本当ですから。でも、やっぱり小林秀雄は、もうとっくにそういう世界に当たっているわけで、にもかかわらず、その中にある真如を語ろうとしたというのが凄みであって、ただフェイクだキッチュだというんであれば、もう〔戦前の〕モボ・モガの時代に尽くされている。

江藤:そうなんですよ。ですけれど、そのフェイクを通じて、小林さんは贋中の真をいつも見ようとしてきたんですね。……ちょうど1961年、昭和36年ぐらいが小林さんの分水嶺なのかもしれないんですね。つまり、そういう贋中の真と、それから贋中の贋、真中の真というようなこと、真でも贋でもどうでもいいっていうような世界との、ちょうどその転換点。

同書、108・110頁
算用数字に改定

そもそも大量生産/消費の資本主義がニセモノ量産装置な上に、日本人は欧米をコピーする形で近代化したから、二重にニセモノである。そんな時代に、あえて「ホンモノ」の痕跡を求めることに意味はあるのか? という問いが、明治以降の日本のインテリにはお約束としてある。

で、江藤いわく、小林秀雄クラスのビッグネームでも、1960年代の高度成長の頃からもう諦めたんじゃない? というわけですね。

ホンモノとニセモノはどう見分けるか|Yonaha Jun
時事通信社が運営する「時事ドットコム」に、拙稿「『ノット・フォー・ミー』が分断を和らげる」が掲載されました。会員限定の記事ですが、登録・講読は無料で可能とのことです。 概要が伝わるように、節タイトルを目次として列記するとこんな感じ。全体で3000字くらいの短い論説です。 ・「控えめ」な人こそが本当は強い ・令和の...

……なんでそんな結論になるかというと、江藤さん自身にとっては、敗戦と高度成長以降の日本がまるごとニセモノなんですよね。この点は、来月5/15に出る拙著でも、じっくり論じています。

ところが、今回の『表現者クライテリオン』鼎談では、『小林秀雄の「人生」論』などの著書がある浜崎さんから、待った、それは違う! とのダメ出しが、江藤と福田(と私?)に入るんですな。

『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』(ビジネス社) - 著者:浜崎 洋介 - 橋爪 大三郎による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
浜崎 洋介『小林秀雄、吉本隆明、福田恆存――日本人の「断絶」を乗り越える』への橋爪 大三郎の書評。文芸批評家はもう絶滅危惧種なのかもしれない。本書の読後感だ。小林秀雄、吉本隆明、福田恆存。俊英の批評家が全力を傾け、文学の批評を通じて日本人の無意識を暴露し、混迷の読者に指針を示した。それはもう昔のこと。人びとは自分の根

どんな議論になるのか、気になりませんか? ぜひ同誌、ないし基になった配信の動画で確かめてくだされば、幸いです!

参考記事: 鼎談前編については1つめに

反共主義から「ネットの中傷」を考える: ファンだからこそアンチになるとき|Yonaha Jun
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(ヘッダーは文春オンラインより、『諸君!』で対談する小林と江藤)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年4月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。