黙示録のようなSF小説:2008年に予言された「プーチンの勝利」

先週の記事で、西アフリカのニジェールの名を出した。にわかに「ホームタウン騒動」で有名になったナイジェリアに隣接し、貧しいのはむろん、世界で最も「情勢不穏な国」の比喩としてである。要は、ヤバい国だ。

「よその国のせい」症候群の日本は、世界のどこまで堕ちてゆくのか|與那覇潤の論説Bistro
告知が遅れたけど、先月18日の『朝日新聞』1~2面の特集「米国という振り子」にコメントした。Zoomで取材してくれたのは、滞米中の青山直篤記者で、以前紹介した同氏の『デモクラシーの現在地』は、トランプを理解する必読書である。 コメントの中身はリンクと一緒に、最後に上げるけど、日米関係史をふり返る企画なので、『江藤淳...

どのくらいヤバいかと言うと、ウクライナ戦争のさなかに米軍を追い出して、ロシア軍に来てもらうくらいヤバい。そう決めたのが、クーデターで成立した軍事政権なのもヤバい。センモンカの発狂が懸念されるヤバさだ。

が、それを笑えないのが本当にヤバいところだ。表向きは民主主義を謳いつつ、植民地的な利権や腐敗を温存してきたとして、米国(と旧宗主国フランス)はこの地域で人気がない。西側の二枚舌よりは、ロシアの一枚舌の方がマシだとする空気があるらしい。

追い出される米国、押し寄せるロシア…揺らぐアフリカ
[ハンギョレS]地政学の風景 アフリカ角逐戦  ニジェール軍事政権、米軍撤収を命令 ロシア軍、力の空白を埋める準備 旧フランス植民地のサヘル地域諸国 文民独裁転覆で「反西側・親ロ」路線に

そんな時代の訪れを、だいぶ前から予見していた小説がある。ていうか、世界的にもかなり有名な作品なのだが、たぶんそんな風にはまだ、読まれてないんじゃないかと思う。

……というわけで、引用行ってみよう。以下のセリフは、内戦中という設定のニジェールの停戦監視団で発される。

「戦場を喫煙所代わりにはさせない。……溢れる善意に窒息する手合いだったなんて、よく隠していられたものね。隣人に愛し愛されることを、久しぶりにたっぷり味わってきなさい、トァン。それが公共的正しさというものよ」

ハヤカワ文庫旧版、77頁
強調は引用者
(後日、現行の版に差し替えます)

読んだ人は、思い出したかもしれない。伊藤計劃の遺作『ハーモニー』(2008年12月)の一節だ。

ハーモニー〔新版〕: 書籍- 早川書房オフィシャルサイト|ミステリ・SF・海外文学・ノンフィクションの世界へ
早川書房オフィシャルサイトのハーモニー〔新版〕ページです。当サイトでは、ミステリ、SF、海外文学、ノンフィクションの名作から最新刊まで、幅広いジャンルを網羅した書籍の情報を提供しています。早川書房の世界を、こちらの公式サイトからご堪能ください。

WHOが身体の健康はおろか、精神衛生までテックで押しつける近未来、うんざりした主人公はあえて戦場を職場に選んでいた。それがバレて叱責され、世界一マジメに国際機関の基準に従う、日本に送り返されてしまう。

原文では「公共的正しさ」にポリコレならぬ、パブリック・コレクトネスとのルビがある。もはや “正しく” あることが、個人の価値観でなく、社会の義務のようになった世界。去年出した本で、ぼくが「クリーンワールド」と呼んだものを、より適切な言い方でとっくに予言していた。

呉座勇一さんとの新刊の「おわりに」を公開します。|與那覇潤の論説Bistro
5月27日をめどに、呉座勇一さんとの新刊『教養としての文明論』が書店に並びます。Amazonでも予約の受付が始まりました! 表紙案は最終調整中につき、 多少異同あるかも タイトルの通り、ずばりコンセプトは「文明論の復権」。 中世史家と、(元)近現代史家の2人による対談形式で、以下の5冊の「文明史の名著」を読み解きながら...

えっ、それって理想じゃないの? と感じる人も、いるかもしれない。そんな人はいまだに「うおおおセンモンカが日本を救った!」として、全員がマスク姿で接触8割削減したコロナ禍の初期を、人類史上のGlorious Daysとして覚えているのかもしれない。つまり、バカだ(笑)。

なぜ、そんな「公共的正しさ」はユートピアどころか、ディストピアしか生まなかったか。これまた、ぼくなら事態の後でようやく気づくことが、さらりとあらかじめ書かれている。繰り返すが、2008年の作品なのに。

なぜ日本の飲食店は、今もマスクをやめられないのか(『潮』座談会完結です)|與那覇潤の論説Bistro
発売中の『潮』8月号に、2年間ほど続いた読書座談会の完結を受けた寄稿が載っている。参加者は、岩間陽子・開沼博・佐々木俊尚・東畑開人の各氏で、もちろんぼくも一文を寄せている。 許可を得て、ぼくの文章の全文を載せる(アゴラへの転載もOKとのことです!)。編集部によるタイトルは「異論が排除されない自由な空間を」だけど、基本...

言ってみれば自分を律することの大半は、いまや外注に出されているのだ。生化学的に計測された精神的逸脱への警告というかたちで、外部化されたのだ。医療分子の発明は、身体と規範とを同一のテーブルに並べてしまった。

同書、143頁

『ハーモニー』の世界では、成人はみな監視チップを体内に埋め込まれ、メンタルも含めた健康をデータとして管理されながら生きている。”適切でない” 感情が湧いた場合も、それを自分で処理するのではなく、AIが出すアラートに従う。

作品から10年ほど後のコロナで起きたのは、ショボい『ハーモニー』だった。本人が「トイモデル」と認める雑な計算で接触制限が決まり、効果も不明なマスクを「とりあえずつければ」叩かれないとして、判断の基準も外注に出された。

『ハーモニー』は英訳され海外でも受賞しているので、ワクチン接種が始まった際の「マイクロチップが注射されて監視社会が…」な噂にも、影響があったと思う。日本人の想像力は同作の後に劣化して、人文系でも「うおおおファクトチェック!」しかしない人ばっかだったけど(苦笑)。

西浦博氏の「トイモデル」の誤りは最初からわかっていた(アーカイブ記事)
「コロナで42万人死ぬ」とか「8割削減が必要だ」と風説を流布し、日本社会を恐怖に陥れた西浦博氏が「あれはトイモデルだった」と言って批判を浴びています。これはアゴラでも初期から指摘したことです(2020年6月3日の記事の再掲)。 よ...

作中でも現実でも、パブリック・コレクトネスなクリーンワールドは、さまざまな検閲でノイズを排除し、一切のリスクや不快さのない秩序をめざす。しかし逆にいうと、わざわざ検閲するのは、そうしなければ「壊れるぞ」と不安に怯える脆さがあるからだ。

なぜだろうか。発売中の『文藝春秋』10月号の連載で、同書を採り上げてずばり書いた。あくまで「リベラルの教科書」としての紹介なので、ネタバレする書評になった点は、許してほしい。

伊藤計劃『ハーモニー』 | 與那覇 潤 | 文藝春秋PLUS
 世界は2種類の人からできている。目に映る世の中を、正常に営まれ「それなりに回っている」と考える人と、「根本的に狂っている」と感じる人である。 リベラルが多様性の尊重を説くとき、想定されがちなのは国…

だが、戦地から来た少女は思う。そんな世界こそ、私を排除してはいないか。生きるなかで人が孕むネガティブな部分を、予防や治療と称して単に「なかったこと」にする医学者が掲げる科学など、偽善のイデオロギーにすぎないと。

『文藝春秋』2025年10月号、390頁

ここでいう「戦地から来た少女」は、ニジェールから帰国する主人公の旧友だった。かつ(現実の)2009年まで続いた、チェチェン紛争の戦災孤児でもあったことが、読み進むにつれ明かされる。

物語を動かすのは、世界が抱える困難をいわば “課題洗浄” して、「解決できる」かのように装うクリーンさの支配に、彼女が仕掛ける復讐だ。

日本では例によってメディアに飽きられ、途中から報道されなくなったけど、現にその紛争は冷戦後の世界を暗転させる分岐点だった。ウクライナ戦争の前、2021年に出した『平成史』に、はっきりとぼくは書いている。

なぜ日本のメディアは、ウクライナにもガザにも「飽きる」のか|與那覇潤の論説Bistro
5月に戦後日本についての歴史書を出すが、その次は「令和日本」の最大の課題である、堕落した専門家が振り回す社会の分析を書籍にする予定だ。温厚なぼくとしては「他人の悪口」で本を売りたくないが、穏当にことを済ませる試みを妨害し、嘲笑ってくる人がいるのではやむを得ない。 なにせ、休戦すらなく今日も続くウクライナ戦争でも、もう...

冷戦の終焉時に輝いていた夢のかげりは、翌98年にはついにかつての政変劇の主人公・ロシアへと及びました。アジア通貨危機の余波で欧米資本が投資を引き上げたのに対抗して、西欧化の旗手だったはずのエリツィン大統領は内閣を次々更迭する強権統治を発動〔し〕……99年の大晦日、チェチェンのイスラム武装勢力を抑え込んで国民の人気を得ていた、ウラジミール・プーチン首相を後継に指名し引退。

無秩序とともにある自由を棄て、力の支配による安全を求め出すポスト冷戦期の方向転換が、2001年9月11日の米国に先んじて、姿を露わにしつつあったのです。

『平成史』167-8頁

いまや偽善よりは露悪が選ばれる時代が来たことに、もう誰もが気づいている。実際には「見えないところ」へと力で追いやっているだけなのに、①あたかも “正しさ” が成立したかのように偽る人よりは、②露骨に力を振りかざす悪漢の方が “まだマシ” で支持される。

プーチンが②なことは、ロシア人や「親露派」も含めてみんな知っている。で、バイデンはただの①だったので、ウクライナ支援という “正しさの特需” も空しく、②のトランプに叩き出された。

二枚舌の偽善よりは、一枚舌の露悪へ。ここまで来るともう、アメリカもニジェール化するのかもしれない。”西側の没落” とは、そんな事態だ。

ダブスタを嫌悪した果てに、「シングル・スタンダード」の戦争が始まる|與那覇潤の論説Bistro
選挙直後から囁かれたとおり、米国は大統領・上院・下院をすべて共和党が押さえるトリプルレッドが決まった。2016年と異なり、トランプがハリスを総得票数で上回るのもほぼ確実で、実質4冠。非の打ちどころのない一方的な全面勝利である。 過疎地に住む人種偏見の強い白人といった、従来イメージされた「トランプ支持者」だけで、こうし...

日本にはかつて、それを予見する文化があった。その遺産を掘り起こし、”没落後の西側” で生きる備えにするのが、ぼくらにできることだろう。

この間「もっとWHO!」「もっと西側!」としか叫べなかったセンモンカとは、自国の小説も読めない文盲のようなものだ。識字率が15%で世界最低らしいニジェールは、彼らのホームタウンにならむしろふさわしい。

参考記事:

なんどもやってくる鮫島伝次郎のために|與那覇潤の論説Bistro
このnoteで以前告知した、三鷹の書店UNITEでのイベントを、来聴した毎日新聞の清水有香記者がネットの記事にしてくださった(冒頭のみ無料)。短縮版が、8/25の夕刊紙面にも載るらしい。 24色のペン:参政党躍進の裏にある「歴史の消滅」 與那覇潤さんの憂い=清水有香 | 毎日新聞  歴史が消えた。  あの戦...
国際政治学も「ぶざまな」学問になるのだろうか。|與那覇潤の論説Bistro
石破内閣の支持率が上がったという。なんと「次の首相」で、1位に返り咲く調査もあるそうだ。 「次の首相」石破氏トップ 内閣支持率29% 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞  毎日新聞は26、27の両日、全国世論調査を実施した。石破茂内閣の支持率は29%で前回(6月28、29日実施)から5ポイン mainich...
ウクライナは主権国家でなくなるのか(文春plusでウェビナー配信中です)|與那覇潤の論説Bistro
3/11にサウジアラビアでの協議で、米国とウクライナが「暫定停戦案」に合意した。もっともロシアが乗らなければ意味がないので、今後の帰趨はトランプとプーチンのディールに委ねられよう。 先月末にホワイトハウスで「停戦を拒否している!」と痛罵されたゼレンスキー大統領には、欧州諸国から同情が寄せられた。しかし実際のところ、戦...

(ヘッダーは、BBCのニジェール政変報道より)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年9月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。