奇抜なタイトルの作品が、有名な賞を獲ると話題を呼ぶが、これを超える例は今後もないだろう。
「プレオー8の夜明け」。内容はおろか、ジャンルさえわからないが、1970年の芥川賞受賞作。
8はユイットと読み、フランス語で「中庭第8房の夜明け」の趣旨だ。あの戦争が終わった後、仏領インドシナ（ベトナム）のサイゴンで戦犯容疑者を収容した刑務所が舞台で、著者の古山高麗雄の実体験に基づいている。
貧弱な体格で、自他ともに認めるお荷物兵卒だった古山は、捕虜収容所で監視役をしていた際に、カッと来てフランス人軍医をビンタしたことがあった。なので戦犯といっても微罪なのだが、そうでない人もいる。
作中で印象的に描かれるのは、（古山がモデルの）主人公とは対照的に、フランスの弁務官を斬殺して死刑になる日本軍兵士の挿話だ。ざっくり引用すると、こんな経緯である。
「二人がタバナケを出発したのは、八月十六日でしたよ。次の日には死んだわけだなあ」と、私が言うと、
「逆上してたな、あのときは。それに、日本は降伏しても、南方軍はやるかと思っていたんだ、あのときは」
タバナケを出発したボワイエとミローは、……船を待つ間、二人はその小さな町で住民たちに言った。――日本は降伏した。ヴェトナムもラオスも、また昔のようにフランスが統治することになった。――
「何を言うか、やっちゃえ、といって、やっちまったんですよ。それで、私の運命は決まっちゃったんですよ」
古山高麗雄『二十三の戦争短編小説』81頁
（単行本版。強調を付与）
実はあの戦争の交戦国でも、フランスとの関係は特殊である。1940年9月に「仏印進駐」が始まった際、すでに同国はドイツに降伏し、親独派のヴィシー政権だった。なので進駐も日仏の協定に基づいて行われており、その意味で侵略ではない。
ところが日本の敗戦後、大国としての復帰をめざすフランスは、東京裁判でも自分たちを「被侵略国」に入れようとする。その際に利用されたのが、ランソン武力進駐事件（1940.9.22）である。
イキった現地の軍人が、協定締結前に「やっちゃえ」で奇襲をかけたもので、日本軍中央は制止し約3日で撤退したショボい事件だが、これが口実になって、ほんとうに「被侵略国」の認定を得てしまう。やった本人は、運命に唖然としただろう。
……といった話が、戦後80年の今年出た難波ちづる氏の研究書に書かれていて、勉強になったのだが、この本はまさしく「プレオー8の夜明け」の背後で蠢いた国際政治の力学を、史実に基づき復元しており、興味深い。
親独政権のフランスと、一種の共同統治を行ってきた日本軍だが、1945年3月の「仏印処理」で単独占領に踏み切る。連合国への内通を疑ってフランス軍を武装解除し、捕虜収容所に送った。
その際に日本軍が行った拷問や虐殺は、当然ながら敗戦後、フランスが開廷したサイゴンの戦犯裁判で裁かれる。ところが両国の文明的な相違から、なんとも評しがたい審理に陥ったことを、難波氏は指摘する。
上官の命令が国際条約に反した不法なものであった場合には、日本軍においてはそれでも従うことが絶対であったにせよ、従わない義務があるとする立場を裁判所は崩すことはなかった。
その一方で、捕虜の取り調べなどにかんする方針を発したものの、犯罪の現場にはおらず、また具体的な指示を下したわけでもない、より上位の幹部たちは罪に問われることはなかった。
（中 略）
人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的意思によって選び取ることができ、犯罪行為をなせばその責任を負わねばならないとする、近代刑法の原点にフランス司法はあくまで忠実であった。
難波、上記書、139・197頁
下級の兵士が不正な行為を命じられても、主体としての人間には自ら判断し、拒否する能力があるはずで、断らなかった以上は本人の責任になる。一方で散々「断れない空気」を作っても、”自分では” 手を下さなかった上官は、不起訴で放免だ。
日本人からすると、「逆じゃね？」と感じても不思議はない。こうした状況に直面したとき、私たちはむしろ、古山高麗雄のように考える。「プレオー8の夜明け」にいわく――
それにしても、人間なんて、はかない存在だな。逃げるべきときに逃げないと、まるで蠅叩きで蠅を叩くみたいに気楽に殺されてしまう。あるいは誰かに逢ったということで殺されてしまう。あるいは、パタン、だ。もう出られない。
ボワイエとミローが、稲葉や鹿野でなく、他の人に出会ったとしたら死んでいない。稲葉や鹿野も、ボワイエやミローに会わなかったら〔死刑で〕死んではいない。会ったとしても、もしその日が一日遅れていたら、誰も死ななかったかも知れない。
古山、前掲書、82頁
（改行を追加）
80年近く前に争われたこの問いは、今日の哲学では “悪い中動態” の問題として知られる。「強い個人」ばかりを想定すると、追い込んだ社会の側の責任を見落とすが、空気に流される「弱い個人」だけをモデルにしても、無責任に陥りやすい。
いじめはたいてい集団で行われる。……のちに責められれば、彼らの多くは、強制されたわけではないが、かといって自発的に参加していたわけでもなく「イヤイヤながらやってしまった」のだと答えるだろう。
加害もまた、中動態的に、つまり主体と客体が未分化のところで生じることがあるのだ。そしてそのときにこそ加害は厄介なものになる。
東浩紀、上記誌（2020年）、29-30頁
いまさら戦争とか「もういいよ」で、終わりつつある戦後80年でも、”思い出し方” を工夫するだけで、いまも――というか永遠に変わらない人生の問題が見えてくる。
あの戦争に行った人たちは、することなすことが極端すぎた時代の中で、ぼくらと同じ人生の課題を、ものすごく過剰に突きつけられただけかもしれない。そんな想像力こそ、いま必要だろう。
20日に発売の『Wedge』12月号の連載「あの熱狂の果てに」では、難波著ほか計3冊の今年の収穫を採り上げつつ、この問題を考えた。他のひとつは、以下でご紹介した林英一『南方抑留』。
もうひとつは、夏いちばんのベストセラーだった辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』。実はすでに、こんなポップを書いたりもしてるので、関係者の “ステマ” にならぬよう、控えめな言及なのは寛恕してほしい。
評論家の與那覇潤さんが、辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』に推薦コメントをくださりました！
現在という場所から、どのように「あの戦争」を「思い出す」か。本書の本質を突いた推薦文です。 pic.twitter.com/jrfrtM3wVR
— 講談社現代新書 (@gendai_shinsho) October 6, 2025
『Wedge』では今回、書き出しも工夫してみた。
過去の “ジッショー！” しかしなければ、そりゃ80年間も「ド定番」だった大事件の記憶ほど飽きられる。文学や哲学、そしてなにより人生の問いとつながるかぎりで歴史は永遠であり、それをしない学問は、もう必要ない。
幸せな家庭はみな同じように幸福だが、不幸せな家にはそれぞれの不幸がある――。
かつて多くの文学青年を惹きつけた、トルストイ『アンナ・カレーニナ』（1877年）の最初の一行だ。これを戦後80年だった今年の日本にあてはめれば、こうなろう。
「開戦の熱狂はどこも同じだが、降伏後の苦しみは土地によりそれぞれである」。
『Wedge』2025年12月号、9頁
参考記事：
編集部より：この記事は與那覇潤氏のnote 2025年11月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。
