真実を知るための好意的解釈の原則に基づく対話

主張の対立のもとでは、一方の知らないことが語られても、それは他方の知っていることだから、そこには、双方ともに知らないこと、即ち、双方にとって真に新しいものの発見はない。しかし、対話においては、対話者の双方にとって、何か新しいものが発見されるのである。なぜなら、対話は科学的発見と同じ構造をもつからである。

科学的発見においては、研究者は、仮説に基づいた問いを自然に発し、自然が仮説を否定する証拠を返せば、新たな仮説をたてて問い続ける。最終的に自然が仮説を受け入れたとき、仮説は検証されて、検証された仮説が新たな科学的事実になるわけだ。こうして、仮説と、それに対する自然の反応の連続は、研究者と自然との対話とみなせるわけである。

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通常の会話において、問う人は、相手の行動、発言、態度、表情などについて、何かが関心を引き、怒り、驚き、賞賛、喜び、悲しみなどの心理的反応が呼び起こされているからこそ、問うのである。故に、問うことは、通常は、相手への問いというよりも、相手に対する自分の感情の表明になる。

例えば、なぜ笑うのかという問いは、多くの場合、相手が笑うことに対する非難の表明なのである。故に、相手は、笑う理由を答えることよりも、むしろ、表明された非難に対して、その理由を問うこととなり、会話論点は、相手が笑ったことの理由から逸脱し、拡散していって、不毛な論争のなかで、見失われ、会話は、双方に何も新しい事実を発見させることなく、終わるのである。

これに対して、対話においては、問う人は、相手の行動、発言、態度、表情などの何かが関心を引くから、問うのだが、好意的解釈の原則のもとで、自分の心理的反応を括弧に入れて、相手の立場にたって、相手の背後の事情について仮説をたてて、問うのである。

例えば、相手が笑ったことに対して不快の念を抱いたとしても、それを棚上げして、冷静に、何々だから笑うのかと問うのである。相手は、仮説が間違っていれば、普通は、真の理由を述べるだろうし、そうでなければ、問う人は、別の仮説のもとで更に問うことで、いずれは、真の理由を知るに至るであろう。こうして、対話においては、論点は拡散せずに、収束していき、問う人は、相手の真の理由を知り、答える人は、問う人の問う真意を知って、双方ともに新しい事実を発見するのである。

森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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