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「要求」提出のきっかけは、日本が日英同盟の誼みから14年8月に参戦した第一次大戦だった。戦場となった山東省・膠州湾一帯で、日英連合軍が独軍施設を占領し、ここでの戦闘は11月7日に終わった。が、中国が日本軍の即時撤退を要求したため、日本は占領地に関する取り決めに加え、日露戦争以来の懸案である満州と内蒙古東部の問題もこの機に解決しようと考えた。
こうして1915年1月18日付で北京政府に提示したのが以下に関する「要求」である。
第一号 「山東省に関する件」四ヵ条
1897年の山東省での独人宣教師殺害事件を契機として翌年に清独間で締結された条約で、膠州湾は99年間ドイツに租借されることになった。第一次大戦で独軍を破った日本は、権利の継承を英国に諮ったが、英国はこれを問題なく承認した。
第二号 「南満州及び東部内蒙古に関する件」七ヵ条
日露戦争に勝った日本はロシアが権益だった南満州鉄道(満鉄)、遼東半島(旅順・大連)の租借権をポーツマス条約で手に入れた。が、租借期限は旅順・大連は25年(23年満了)、満鉄は36年(33年満了)であり、日本が敷設した安奉鉄道の使用権は15年間だったので、日本はこれらの延長を欲した。またこれら鉄道周辺に住み着いて事業を始めていた日本人と中国人との間に、商取引を巡るトラブルも生じており、こうした問題を解決する両政府間の取り決めも要求した。
第三号 「漢冶萍公司に関する件」二ヵ条
漢冶萍(かんやひょう)公司は揚子江中流の漢陽市にある製鉄所で、社名は優良な鉄鉱山の大治と大炭田の萍郷の三つの地名に由来する。1898年に設立されたが、萍郷で石炭が見つかるまでは日本の石炭を運んで製鉄していた。日本の出資は辛亥革命まで10年余りで興業銀行300万円、三井物産100万円、横浜正金銀行1000万円の巨額に上り、貸付金総額は政府分3300万円を含め約3500万円に達した。が、辛亥革命後に中国政府が同公司を接収した結果、事業が行えないほど破壊され略奪され、国有化されようとしていた。日本政府は投資案件を保護するため、これの合弁化を要求した。
第四号「一般海岸島嶼の不割譲に関する件」一ヵ条
これは、外国に中国の海岸地域を割譲しないよう求めるものである。第三国が中国の海岸を領土化することは、対岸に位置する日本(とりわけ台湾)にとって大きな脅威になる。
第五号「懸案解決その他に関する件」七ヵ条
後に「五四運動」が矛先を向けた七ヵ条は、中央政府への日本人顧問の雇用、日本の病院・寺院・学校用の土地所有権の承認、一部地方の警察の日中合同化や警察官庁への日本人雇用、日本からの兵器の供給や合弁兵器廠の設立等、一部地域の鉄道敷設権の日本許与、福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備に外資を要する場合の日本との協議の優先、日本人の布教権を容認であった。最終的にすべて取り下げたが、孫文はこれらの一部を除く大半の「要求」を容認していた。
以上の通り、一般に「要求」は「二十一ヵ条」と称されるが、第五号七ヵ条は最終的に取り下げた提議事項なので、中国に同意を求める「要求」は一号から四号までの十四ヵ条だった。交渉は5月25日の決着まで5ヵ月余りに及び、その間に30回近い交渉が行われた。
日本は、早急かつ円満に交渉をまとめたいと中国に要請し内諾を得ていた。が、中国が「要求」を歪曲して外部に吹聴したため、10日もしないうちに「要求」が、中国の主権を侵害するもので談判交渉の余地がないとの批判が、内外の新聞雑誌などに取り上げられた。今日でいう認知戦である。
結果、各省から交渉反対の強硬意見が北京に届き、面子保持の常套手段として返答を故意に延ばしたり、認めていた事項を次の会談で撤回したりして、日本の諦めを待つかのような態度をとった。日本は3月半ば過ぎ、満州や山東省の日本軍の交代時期をずらして、日本兵が増える形をとり圧力をかけた。
4月26日の25回目の交渉で日本は、福建省関係を除いた第五号の項目すべてを記録に留めるか撤回する、中国に配慮した妥協案を提示した。中国は5月1日に最終回答をしたが、日本人は満州で中国の警察行政に服さなければならず、裁判も中国の裁判所で審理するなどの内容で、到底日本が了解できるものではなかった。
日置公使は5月3日、加藤高明外相に最後通牒を示唆する電報を打った。政府は山県有朋や井上馨の元老会議を含め日夜検討した結果、5月9日を回答期限とする最後通牒を5月7日に発し、世界に公表した。中国は英仏両公使からの勧告もあり期限日に受諾と回答した。
翌日、日置公使は英仏の公使から祝辞を受けている。一方、中国紙は、大隈総理を大悪人、交渉担当の陸徴祥外交総長らを売国奴と罵った。こうして結ばれた条文は省略するが、第一号から第四号は、ほぼ日本の要求に沿う内容であった。
同書には最後通牒に関する以下のようなエピソードが記されている。
五月五日の夜、北京政府参政である李成鐸が日本公使館の船津辰一郎書記官にこう話した。「交渉がこのように難局に陥ったのは、我が政府が英米政府に頼り過ぎ、交渉内容を外部に漏らしてその声援の得ようとしたからだ。その結果政府は進退の余地を失ってしまった。修正案を強硬なものにしないと大総統の体面に関わる。反体制派が政府を攻撃する。いよいよ日本が最後の決意を示すことになれば我が国は譲歩するしかない」。
つまり振り上げた拳を下すきっかけを作る(=面子を立てる)ために、北京政府も最後通牒を発して欲しいと要請しているのである。
100年前も今も変わらぬ、福島処理水を理由とする海産物禁輸や高市答弁にまつわる今般の一連の言動を彷彿させる、中国の手口である。
最後に「五四運動」。これは14年に勃発した第一大戦講和のためドイツに平和条約を認めさせるべく、19年1月18日から6月28日までパリで開かれたヴェルサイユ講和会議での出来事が直接の契機となった。同条約で日本はドイツが権益を有していた南洋諸島の統治と山東省権益の譲渡を得た。
袁世凱政権は14年8月6日、第一次大戦での局外中立を宣言したが、日本は山東省のドイツ利権(膠州湾租借地)の中国還付が目的だと英国を説得、それを最後通牒に認めて8月1日に参戦し、早くも同年11月に青島を陥落させた(『近代国家への模索1894-1925 中国近現代史②』川島真 岩波新書)。
中国が問題にしたのはこの「中国還付」の文言である。袁政権も17年にドイツに宣戦布告したが、形だけで戦闘はしなかった。日本にすれば青島陥落から3年経ち日本人も住み着いている。取り戻したいなら、早々に参戦して自力で失地回復すれば良いのである。当時の国際法ではそれが許された。
19年5月4日の講和会議で、中国首席全権の陸徴祥外交総長や顧維均は、山東省は参戦した中国に戻されるべきと主張した。が、列強は聞き入れず、中国代表は席を立って帰国した。33年の松岡洋右にしろ、71年の「アルバニア案」決議前の中華民国にしろ、国際会議からの退席は良い結果を生まない。
この5月4日、北京大学の学生が起こした反日活動=「五四運動」が中国各地に広がったのである。この山東問題の決着は、米国主導で「海軍軍備制限条約」と「四ヵ国条約」が成った21年12月のワシントン会議で併せて結ばれた「支那に関する九ヵ国条約」で、日本が中国に返還することで決着した。
むすび
当時も今日も、世界の紛争は米国が主導して決着することが多い。そして日本はしばしば譲る側にまわる。こうした歴史に鑑みれば、日本が米国と軍事同盟を結んでいることの重要性が再認識できる。目下の中国との摩擦も、米国を始めとする自由と民主主義を共有する諸国を味方につけて対処すべきだ。
一方、縷説したように、日本が中国近代化に果たした役割は極めて大きく、毛沢東はそれを熟知していた。習近平は「日本は過去を直視せよ」という。が、今もし習が中国近代化の過程を直視し、毛が第二次危機を終わらせた知恵を働かせて、誰にとっても無益な武力による台湾統一を放棄するなら、史上二人目の中国共産党主席になれるかも知れぬ。
【参考文献】
『梁啓超文集』岡本隆司・石川禎浩・高嶋航編訳 岩波文庫
『「抗日」中国の起源』武藤秀太郎 筑摩書房
『近代国家への模索1894-1925 中国近現代史②』川島真 岩波新書
『条約で読む日本の近現代史』田中秀雄・藤岡信勝編 祥伝社新書
『袁世凱-現代中国の研究』岡本隆司 岩波新書
『戊戌変法運動史の研究』深澤秀男 図書刊行会
『G・E・モリソンと近代東アジア』岡本隆司編 勉誠出版
『暗黒大陸 中国の真実 1933年』R・タウンゼント・田中秀雄訳 芙蓉書房
『孫文と毛沢東の遺産』藤井昇三・横山宏章編 研文出版
『国際化の中の帝国日本 日本の近代4』有馬学 中央公論新社
『戦争の日本近現代史』加藤陽子 講談社現代新書






