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米露の核軍縮枠組みである新START(New START)が失効し、核戦力をめぐる国際的な「上限」と「検証」の仕組みが空白化している。

形式的には以前から形骸化が進んでいたとしても、「最後の枠組み」が消えることの意味は重い。核兵器とは、ひとたび使われれば取り返しがつかない“破局兵器”である。だからこそ、保有そのものをめぐる賛否以前に、最低限のガバナンス——総量の上限、配備の制約、相互監視と検証、偶発的エスカレーションを防ぐ対話回路——が存在するかどうかが、世界の安全保障の基盤になる。
ここで重要なのは、議論を「善悪」や「精神論」から切り離すことだ。銃犯罪の発生率が、国民性や人種の気質ではなく、銃の流通量(ストック)に強く規定されるのと同様、国際政治でも、殺傷能力の高い兵器が一定の量を超えて存在すれば、使用される確率は上がる。偶発・誤認・強制の連鎖が起こり得る以上、「持っているが使わない」は倫理ではなく制度で支えなければならない。枠組みが欠けた世界は、それ自体が危険なのである。
しかし、こうした「制度としての安全保障」という観点は、日本の言論空間では育ちにくい。右派陣営は左派を「平和を唱えれば平和が訪れると考えるお花畑」と揶揄し、左派陣営は右派を「軍国主義」「戦争やりたがり」と断じる。互いの主張を“極端化した藁人形”に変換して殴り合う構図が、長く定着している。
だが冷静に言えば、左右双方の主張には、それぞれ「見るべき点」がある。左派が強調してきた、軍備の総量規制や国際的な軍備管理の必要性は、まさに現実のリスク管理そのものだ。兵器を放置すれば、事故でも政治判断でも使用確率が上がる。国際政治においても“流通量”のコントロールは不可欠で、核に関しては特にそうだ。
他方、右派が指摘する地政学的現実——ロシア、中国、北朝鮮という脅威環境、そして周辺海空域での力の変化——は、日本が目を背けられない制約条件である。抑止力の議論は「好戦」ではなく、相手に誤算をさせないための計算として存在する。
本来ここから導かれる結論は単純だ。日本が取るべきは、「軍縮か抑止か」という二者択一ではない。短期の抑止(現実対応)と、中長期の軍備管理・軍縮(リスク低減)を同時に走らせる“ポートフォリオ”である。実際、冷戦期の米ソですらそうしていた。表では核抑止でにらみ合いながら、裏では条約と検証で総量と配備を管理し、事故や誤認の確率を下げる努力を積み上げてきた。抑止と軍縮は、矛盾ではなくセット運用されてきた現実がある。
ところが日本のネット空間では、この「両立設計」が最も語られにくい。右派の空間では軍縮が甘さとして排除され、左派の空間では抑止が軍国主義として排除される。結果として、本来政策の本丸である中間領域——つまり「抑止しつつ、どう管理し、どう減らすか」という設計論——が痩せ細る。議論が感情の同調圧力に吸い込まれ、敵味方のラベリングだけが先に立つ。安全保障が“応援合戦”に変質していく。
では、日本にできることは何か。実は、日本は軍縮と抑止の両方の言語を話し得る、珍しい位置にいる。核を持たず、唯一の被爆国でありながら、米国の同盟国として抑止の現実も背負っている。さらに、中国・ロシア・北朝鮮に囲まれる当事国でもある。これは「理想主義国家」だから世界を導けるという話ではない。むしろ、リスク管理国家として「軍備管理の現実案」を出せる可能性があるということだ。核軍縮の枠組みが揺らぐ今こそ、数量・配備・検証・対話の回路をどう再構築するか、その現実的な道筋を提示する外交と知的蓄積が求められる。
最後に、左右双方に言いたい。必要なのは“相手を論破する快感”ではなく、“相手の制約条件を理解したうえで、自分の主張を現実に接続する誠実さ”である。左派は抑止の必要性を、右派は軍備管理の必要性を、それぞれ自陣の言葉として語れるようにならなければならない。世界は、条約が失効しても待ってくれない。枠組みが欠如した世界で、最も危険なのは、相互不信と総量増大が惰性で進むことだ。
抑止と軍縮は両立する。というより、両立させなければ安定は作れない。日本の議論は、そろそろこの「設計論の土俵」に降りてこなければならない。中間領域こそが政策の本丸であり、そこに言葉と制度を取り戻すことが、私たちが現実にできる最も責任ある安全保障論なのだ。






