
国家さえなければ人は自由に生きられるとするアナーキズム(無政府主義)の青写真を掲げ、目下の国家体制を全否定するといった論調も、2010年代の後半から流行してきました。しかしそうした識者が、「国家」による個人の生への統制がかつてないほど強まったコロナ禍での行動制限に抵抗した例は、ほぼ一人も目にしません。
つまりその青写真は、川崎誠のように他人を蔑むことで自意識を満たそうとする、歪んだエリート意識の表われにすぎなかった。私たちは脱コロナに向かう動きと軌を一にして、敗戦直後にも等しかった『青の時代』のニヒリズムを今度こそ卒業し、社会としての成熟を目指すときでしょう。
デイリー新潮、5頁
(強調を追加)
と、ぼくが書いたのは、『週刊新潮』の2023年3月23日号だった。日本のコロナ禍は世界一引き延ばされ、「感染症法5類」となる同年5月まで続いたので、その最末期のことである。
引用に出てくる『青の時代』とは、三島由紀夫が1950年に発表した小説だ。東大生が学問を活かして起業するベンチャーという、令和にも推されそうな企業が、実はただの詐欺だった「光クラブ事件」をモデルにしている。
同作を用いて、怪しい未来予想を振りまく詐欺師みたいな学者が横行した、平成末からの世相を読み解く拙稿は、以下から読める。『危機のいま古典をよむ』にも収めたが、3年が経ついま、新たな意義が生まれている。

学問で “稼いだ” ことを誇る人は、市場の評価と別のところに学問の価値を置いてないわけだから、潜在的な詐欺師になりやすい。だが “学問でしか” 稼げない時点で、学者の看板も外せない。
『青の時代』での三島の関心は、そうした(おそらく彼自身とも重なる)中途半端な実存を生み出す社会と、破滅に至るその宿命を解剖することだった。ぼくなりに要約すると――
大学名や職歴などの肩書ばかりを誇り「だから私を信用せよ」と主張する姿勢のいかがわしさは、誰もが知っていることでしょう。しかし青写真の内容が時代の気分と合致するときには、かえって矮小な宣伝法こそが、消費者にとってのお墨つきとして機能します。
通俗に徹することで大衆から利益を上げたいのか、俗人を嘲笑して自意識を満たしたいのかが、本人にすら曖昧でわからない。そうした矛盾を抱える誠を、三島は「まじめな贋物」と呼び、好悪なかばする存在として描き出しました。
同上、3頁
「あるある」でしょ?(笑)。コロナ、ウクライナで学者がすっかり予想を外し、もう大学が信用されない令和の時代に「ボクたちは大学ともつながりつつ、バズってる!」と叫ぶ人の知的な惨めさは、昨秋にも指摘した。

『青の時代』で主人公が営む “産学連携” は、ネズミ講まがいの金融業者だ。が、なにせビジネスに役立つ人文知を展開する会社だから、社員教育にも “ゆるく” 人文主義を採り入れている(苦笑)。
ずばり、それがわかるシーンはこちら。

いやがる女の口に一度きに大きな〔飴玉〕三粒を押し込んだので、女は叫ぼうにも叫ばれない。どこから〔差し押さえの〕手をつけるべきかと部下が指示を仰ぐ。まず蒲団からだねと誠が言った。
「そうら来た。権利のための闘争だい」
若い者たちがこんな高尚な懸声をかけて作業にとりかかったのは、誠が社員に訓話を与える折に、イエーリングの権利闘争論のこの一節をたびたび引用したからである。これが何ら意味を解しない連中の間にも、一種のモットオとなって流行した。
新潮文庫、178頁
『権利のための闘争』は、ドイツの法学者による1872年の講演録で、日本でも西周の訳が1886年に出たという。明治憲法の3年前だが、三島が通った東京帝大法科では基本書だったのだろう。
そんな “教養主義” の薫り漂う書名を、ローンを取り立てる反社企業のチンピラが叫ぶのがツボなのだが、イェーリングの同書は実際に、債権者は自身の権利を行使して、躊躇なく債務を差し押さえよと明記している(83頁)。
なぜだろうか。三島の言及を待つまでもなく、イェーリングはこんな “人文主義” の比喩を出す。俗見に反して法学的には、『ヴェニスの商人』で正しいのは高利貸しのシャイロックなのだ。
法廷に判断を迫っているのは、もはや一ポンドの肉を要求するこのユダヤ人ではなく、ヴェニスの法律そのものである。けだし、かれの権利とヴェニスの法は一体であって、かれの権利が破滅すればヴェニスの法も破滅するのだから。
それにもかかわらず、シャイロックが、下劣な思い付きによってかれの権利を反故にする裁きに屈してしまったとしたら、……シャイロックを屈服させることによってヴェニスの法が枉〔ま〕げられたのだ、という感想を抱かない者があろうか?
岩波文庫、94-95頁
(段落を改変、強調はママ)
次頁の補注にあるように、借金のカタに人肉を切りとるのが不法なら、契約自体を無効にすべきであって、証文が「有効」だと認めながら、因縁をつけて執行を事実上不可能にするのは、法に基づく秩序そのものを毀損する。
ちょうど、ロックダウンと異なり法的な権利はあるが、「不謹慎だから自粛すべき」な社会統制が、憲法の定める人権を空洞化した国のように。
だから、性悪で自己チューな私欲の権化に見えるシャイロックの闘いは、彼のエゴ(だけ)ではない。それは法の支配全体を守る闘いであり、いかに彼の評判が悪くとも擁護されないなら、その社会に自由や公平さはない。
勇気をもって自分の権利を守ろうとしたことのない者が、国民全体のためなら喜んで自分の生命・財産を投げ出したいなどと思うものだろうか?
(中 略)
この理想主義は、自己の権利を守ることによって法一般が守られるばかりでなく、法一般が守られることによって自己の権利が守られることを心得ている。
105・107頁
…と、コロナ禍で始まった “令和” にふさわしい “人文主義” なお話をしてきたのには、理由がある。イェーリングのアツい人権思想を、敗戦直後のニヒルな世相の描写に援用したとき、三島に見えていた景色はなんだろう。
ニセモノが横行する社会だ。単に、カネ儲けに走るといった意味ではない。 “勇気” を必要とする闘いをなにひとつしなかった者が、闘った者のみが得るべき “人文主義” の名を盗み取ろうとする醜悪さを、令和には指している。

コロナ禍の最中に、書店や古書店は閉鎖の憂き目にあわなかったか? 演劇や音楽の上演は絶望的ではなかったか? そのときなにもしなかった者が、なぜ後からしゃしゃり出て「会社員にも “人文書” を売ってやった」と恩に着せているのか?
カネが貰えれば “人文” の看板を売るのか? それは、カネでたとえば “性愛” を売る売春の論理となにが違うのか? 売春を業とする者がいたっていいが、それを哲学だ・批評だ・文藝評論だと盛る必要がどこにあるのか?

今月出た『文藝春秋』3月号での連載「保守とリベラルのための教科書」では、このイェーリングを採り上げつつ、昨年末に盛り上がった “令和人文主義” をめぐる論争を総括してみた。
ご存じのとおり、インターネットは速報性に強い分、保存性が弱い。この記事にせよ、たとえば将来noteがサービスを停止したら、読めなくなるかもしれない。だからこそ歴史の証拠は紙で残すのが、人文主義の本分である。

「悪しき男性性」という表現が普及して久しいが、もしそれが実在するなら、よき男性性もまた存在するはずだ。そちらの議論が盛り上がらないのは、要は実例が少ないからだろう(苦笑)。
だが少ないことは、「ない」ことを証明しない。単に視野が狭くて、見落としただけかもしれない。否、仮にほんとうに存在しないとしても、理念としてはこれが “よき男性性” では? と、模索する営みは排除されない。
そう示唆するイェーリングの引用で、この “人文主義” の稿を閉じよう。「債務者」は危機に闘わなかったニセモノ、「債権者」は闘ったホンモノにも、置き換えられる。おそらくそれは、三島の運命をも決めたように思う。
普遍的に通用する所見としてこう言うことができるであろう。債務者に同情するのは衰弱せる時代のしるしである、と。
その時代自体は、これを人道主義と呼ぶ。
これに対して力に充ちた時代は、とりわけ債権者が自己の権利の満足を得られるように配慮し、……債務者に対して厳格な態度をとることをためらわない。
121頁(強調は引用者)
参考記事:


(ヘッダーは2004年の映画版で、証文を掲げるアル・パチーノのシャイロック。YouTubeより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年2月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






