予算委員会で予算以外の問題を取り上げるのはおかしいとか、そんな時間があったら先に予算を通してからにしろといった暴論がSNSで高市応援団からなされて、なんとなくもっともだと騙されている人も多いようだ。
しかし、予算委員会で国政一般を取り上げるのは憲政史のなかで形成された議会政治の基本的枠組みの一部である。
戦前は英国やフランスにならって本会議で首相と野党が対決していた。東京駅で暴漢に襲われ重傷を負った濱口雄幸首相が本会議を欠席したところ、職務を全うできなければ辞めろという声が上がり、無理をして登院したところ、傷が悪化し、退陣に追い込まれ、亡くなった。
このとき、野党で登院要求の急先鋒だったのが鳩山一郎であり、マスコミでは石橋湛山だった。ところが戦後になって鳩山は日ソ交渉をまとめるために批判を受けつつ首相の座に固執したが退陣に追い込まれ、石橋湛山は風邪をこじらせて入院したとき濱口に退陣を迫ったこととの言行一致を問われ早期退陣に追い込まれた。
ところが、戦後になってGHQは米国議会のように委員会での審議を中心に据えることを要求した。しかし、三権分立が明確な米国では議員が法案を提案し、議員同士で討論するので政府が答弁などをしないわけである。
ところが、日本は議会制民主主義で法律の多くも議員でなく内閣提出であるから、首相が野党と対決する場がないと意味がない。そこで、1950年代に予算委員会に首相が出席して広い問題に回答する習慣が形成された。憲法慣習に近いものと言っても過言ではない。
こうした習慣をやめるなら、本会議中心主義に戻すとか、党首討論を頻繁にするとか、閣僚が細部まで理解して中身の濃い議論にするとか代案を用意すべきである。
また、議会の習慣は安直に変えるのではなく、与野党で慎重に協議し、与野党合意のもとでやるべきである。とくに、政権交代が滅多にない日本では大事なことである。
そもそも予算案は審議入りが遅れたらその分、成立が遅れるのは仕方ないことである。集中審議をすればいいという人もいるが、審議時間だけとればいいという問題ではない。審議で明らかになった問題点について野党もマスコミも関係者も慎重に検討し再質問するには時間が必要なのである。
今回の場合は、冒頭解散すれば予算成立が遅れるのは覚悟すべきであるし、どうしても早くあげたければ内容について野党に大幅に譲歩すべきである。審議時間を短縮してもいいのは、災害対策など予期せぬ出来事があった場合と、あるいは衆議院解散の理由が国会改革を単一イシューとしてされたような場合だと思う。
また、高市首相の健康問題を理由に国会出席を少なくするのは理由にならない。濱口雄幸首相の暗殺未遂といった場合にはテロに報酬を与えるなという理由が言える。また、急な病気で短期間出席時間を減らして後で埋め合わせするとかいうことはあり得るが、長くなれば臨時代理を置くべきということになる。
民間企業でも社長が取締役会や株主総会に従来の社長ほどの頻度や時間出席しないことは許されないし、そういう健康不安があるなら社長になるなと言われるのではないだろうか。
もちろん、私も首相や閣僚の国会出席は少し長すぎると思う。与党優位にならないのなら改革は可能だと思う。たとえば、ゴールデンタイムにNHKが最初から最後まで中継することを条件に短くしてはどうかとか、首相に求められた質問は首相が必ず自分で答えるといった提案をしたこともある。

衆院予算委員会で答弁する高市早苗総理 自民党HPより







コメント
筆者の主張には、なぜ今SNS等で「予算を先に通せ」という声が出ているのか、国民感情の根本的な分析が欠けています。
そういう声が出ているのは、一部野党のこれまでの振る舞いが国民にどう見えてきたかという点ではないでしょうか。
結局は過去の一部野党の振る舞いへの根深い不信感があるのではないでしょうか。
それによって「予算妨害only」に見えてしまっている、そう見られてしまうだけの蓄積があります。
そこを無視して、反発する側を「騙されている」「暴論だ」と片づけるのは少し違うと思います。
これはまさにイソップ寓話の「オオカミと嘘つき羊飼いの少年」と同じです。
これまで建設的な議論よりも政局利用のパフォーマンスを繰り返してきた結果、
もはや国民からは全く信用されていないのです。
過去の振る舞いによって信用の貯金がすでに底をついている。だから国民には「また妨害か」としか映らない。
「憲法慣習」という立派な建前を野党の免罪符にする前に、なぜ一部野党が国民から「オオカミ少年」のように見放されているのか、
制度として可能であることと、国民から支持されることは全く別です。
そして今、少なくない人にとっては、それが予算妨害にしか見えていない。そこが問題の核心だと思います。
筆者が本当に予算委での国政議論の意義を守りたいのであれば、批判する国民を「騙されている」と見下すのではなく、その慣習の信頼性を毀損してきた側にこそ苦言を呈すべきではないでしょうか。
制度を形骸化させたのは制度を悪用した側であり、国民はそれを正確に見抜いているのです。