私のバブル戦後史(10) 霞が関の梁山泊

私は人生の中で、サラリーマンと研究者と自営業者という3種類の仕事をしてきた。そのうちサラリーマンとしての生活は単調で、語るべきことはほとんどないが、サラリーマンをやめて慶応大学の藤沢(SFC)の大学院を出てからはいろんなことがあった。

私が最初に就職したのは国際大学GLOCOM(グローバル・コミュニケーション・センター)だったが、これは青木昌彦の紹介によるものだった。彼は2001年に経済産業研究所長に就任し、私はその上席研究員になった。それはバブル崩壊後の日本経済が立ち直る改革の試みでもあった。

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青木昌彦の霞が関改革の実験

中央省庁再編を契機に設立された独立行政法人・経済産業研究所(RIETI)は、日本の政策研究機関としては異例の存在だった。青木昌彦所長の掲げた理念は「経産省の研究所ではなく、霞ヶ関全体に政策提言を行う独立したシンクタンク」をつくることだった。

創設期のRIETIには、霞ヶ関の常識からみれば異様なほど自由な雰囲気があった。青木所長のもとには官僚、研究者、ジャーナリストなど多様な人材が集まり、研究員は個人の責任で自由に論文やコラムを発表できた。

当時のメンバーには、中村伊知哉、高橋洋一、安延申、泉田裕彦(のち新潟県知事)、岸本周平(のち衆議院議員)、村尾信尚(のちテレビキャスター)など、のちに各分野で活躍する人物がいた。研究部長には松井孝治(のち参議院議員)、その後任にはエネルギー政策で知られる澤昭裕がついた。

特筆すべきは、所内のコンセンサスを必須としていた従来の慣例を廃止し、個人の責任で研究を発表できる仕組みを導入したことである。独立行政法人として初めてウェブサイトを開設し、他省庁の政策も遠慮なくコラムや論文で批判を展開した。これは霞ヶ関の慣行からすれば異例の試みで、RIETIは霞ヶ関の梁山泊と呼ばれた。

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