
Tim Brown/iStock
DCのポトマック河畔の桜。今年の開花は特に見事。数千本ともいわれるソメイヨシノは圧巻だ。息を飲む迫力だ。
20年ほど前に私が訪問して感激した千鳥ヶ淵や皇居、目黒川に勝るともいえる華やかさだった。世界からやって来た数万人の観光客が歓声を上げている。
以下はもう30年ほど前に取材し報道した内容だが、残念ながら今でもほとんど知られていない。改めて記しておきたい。
日米の間で交わされた桜とハナミズキ、そして青い目の人形と答礼人形。どれも本来は「国境を越えた友情」を象徴する贈り物だった。
しかし戦争という巨大な暴力が始まった瞬間、それらはまったく異なる運命を辿る。その対照は、国家の政策というより、社会が文化をどう受け止めるかという“心のあり方”を映し出しているように見える。
桜とハナミズキ:残されたもの、失われたもの
1912年、日本がアメリカに贈った桜は、100年以上を経た今もポトマック河畔で咲き誇り、春になると世界中から人々が訪れる。今年の開花は特に見事で、世界から来た数万人の観光客が歓声を上げている。
一方、1915年にアメリカから日本へ贈られた州花ハナミズキは、戦争の混乱と管理の途絶の中でほとんどが姿を消し、原木として確認できたのは東京都立園芸高校のわずか2本だけだった。これらもすでに枯死している。
アメリカでは桜が「友好の象徴」として守られ続けたのに対し、日本ではハナミズキが戦争の影に飲み込まれるように消えていった。この非対称性は、単なる植物の寿命では説明できない。文化的な贈り物をどう扱うかという社会の姿勢の違いが、そこに静かに表れているのかもしれない。
戦時下の言語と教育:英語禁止と日本語学校の対照
開戦と同時に、日本では英語が「敵性語」とされ、学校教育や公共空間から急速に排除された。これは当時の総力戦体制の中では珍しいことではないが、文化的な交流の痕跡を断ち切る結果にもつながった。
一方アメリカでは、戦争の前後から「日本語を理解する必要性」が軍内部で強く認識されていた。その結果、次のような日本語学校が整備されていく。
1941年11月:米陸軍第四軍情報学校(サンフランシスコ)開校。真珠湾攻撃のわずか1か月前、旧飛行機格納庫を使って開校した。開戦を覚悟して諜報戦の必要性を認識した米国が準備したと聞いた。当時、日本語を話せる人材が極端に少なかったため、日系二世(Nisei)や帰米二世(Kibei)が中心となった。
1942年:強制収容に伴いミネソタ州キャンプ・サベージへ移転。西海岸から日系人が排除される中、ミネソタ州が受け入れを表明し、学校は拡大。軍情報部語学学校(MISLS)として再編される。下記のスネリングもそうだが、私は複数回訪問取材した。寒さが厳しく、近くにはほとんど何もない田舎だった。
1944年:フォート・スネリングへ移転し最大規模に。太平洋戦線での捕虜尋問、文書翻訳、暗号解読、地図分析などに従事する日本語要員を大量に育成。戦後の占領期にも不可欠な存在となった。
日本の降伏後、占領時代に大活躍したCIC(陸軍対諜報部)の諜報員も何人も取材したが、これらの学校の卒業生が多かった。
さらに、私の母校であるUCバークレーやコロラド大学にも、米海軍の日本語学校が作られ、本格的に敵国の言語を必死に勉強した。ここから、ドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカーといった後の日本文化研究の巨人たちも育った。
アメリカが日本語教育を進めたのは諜報目的であることは否定できないが、同時に「言語を学ぶことが相手を理解する最も確実な手段である」という現実的な判断があった。この点は、敵性言語として使用を禁じ、文化を排除する方向に傾いた当時の日本社会とは対照的に映る。
青い目の人形と答礼人形:友情の象徴が“敵性”に変わる瞬間
1927年、アメリカから日本へ贈られた12,739体の青い目の人形は、子どもたちの友情を願う温かな贈り物だった。
しかし開戦と同時に、その象徴性は一夜にして反転する。「敵国のスパイ」「仮面の親善使節」そんなレッテルを貼られ、竹槍で突かれ、壊され、燃え盛るドラム缶に投げ込まれたという証言が各地に残る。
対照的に、日本からアメリカへ贈られた58体の答礼人形は、戦時中も破壊されることなく、学校や家庭で大切に保管され、今も多くが展示されている。
ただし、日本でもすべてが破壊されたわけではない。取材で知った教師たちは、危険を承知で人形を隠し、守り抜いた。文化を守ろうとする良心は、どんな時代にも確かに存在していた。
日米の扱いの違いが語るもの
これらの史実を並べると、ひとつの問いが浮かぶ。「戦争は文化を破壊するのか、それとも文化が戦争を超えるのか」。日本では、戦時下の情報統制と敵性文化排除の空気が、贈り物に込められた善意さえも破壊の対象に変えてしまった。
アメリカでは、敵国からの贈り物であっても、それを「子どもたちの友情の象徴」として守ろうとする人々がいた。乱暴に言えば、片方では戦争が文化を呑み込み、もう片方では文化が戦争を越えて残った。これは勝敗や軍事力とは無関係の、文化に対する社会の姿勢の違いを静かに示している。
歴史が残した静かな教訓
桜は今もアメリカで咲き続け、答礼人形は例えばボルチモア美術館のガラスケースの中や、米国の一般家庭で静かに微笑んでいる。それらは、戦争の時代を生き延びた「文化の証人」だ。
そして、青い目の人形の多くが焼かれたという事実は、恐怖と憎悪が人間の心をどれほど容易に変えてしまうかを教えてくれる。
同時に、密かに人形を守った日本の教師たちの存在は、文化を守ろうとする良心がどんな時代にも消えないことを示している。
日本人からの反発を覚悟して取材した史実だが、ドナルド・トランプが大統領になり、日米関係が再検討されている今こそ静かに語り継ぐ価値があると感じている。







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