「私はNISA貧乏になりました」
SNSのタイムラインにふと流れてきたその匿名のアカウントのつぶやきを見たとき、私は鼻で笑っていた。金融リテラシーの欠如、計画性のなさ、あるいはただの自己責任。
当時の私は、そんな冷ややかな言葉でその投稿を切り捨て、自身の証券口座のアプリを開いては、右肩上がりに伸びる資産残高を見て悦に入っていた。まさか、それからわずか数年後に、私自身がその言葉を噛み締めることになるとは思いもしなかった。

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私が投資に本格的にのめり込んだのは、インフレの足音が日本の実体経済にヒタヒタと忍び寄ってきた頃だった。長らく続いたデフレマインドから抜け出せない社会を嘲笑うかのように、スーパーの食料品は少しずつ、しかし確実に値上がりしていった。実質賃金はマイナス成長を続け、銀行口座に眠る日本円は、いわば「インフレ税」とも呼べる見えない力によって、その購買力を日々削り取られていた。
「円という単一アセットにフルインベストメントしている状態こそが、最大のリスクである」
どこかの経済学者が語ったその言葉が、私の焦燥感に火をつけた。折しも、政府は「貯蓄から投資へ」というスローガンのもと、新NISA制度を大々的にスタートさせていた。非課税保有限度額は1800万円。私はこれを、インフレと国家の財政不安から自己防衛するための「シェルター」だと認識した。
私は、手取り28万円の給与の中から、毎月限界までNISA口座に資金を投入する生活を始めた。
最初は純粋な防衛策だった。しかし、証券口座の数字が増えていく快感は、次第に私の思考を歪めていった。私は「全世界株式(オール・カントリー)」のインデックスファンドを盲信し、給与が振り込まれると同時に、生活に最低限必要な額だけを残して、残りをすべて投資に回した。毎月15万円、時にはボーナスを全額突っ込んだ。
残った13万円で、家賃、光熱費、通信費、そして食費を賄う。必然的に、生活は極限まで切り詰められた。
スーパーでは半額シールが貼られる時間帯を狙って徘徊し、昼食はタッパーに詰めた白米とふりかけのみ。友人からの飲み会の誘いは「仕事が忙しい」という定型文ですべて断った。一回の飲み会で消える5000円が、年利5%で30年複利運用されれば約2万1000円になる。そう計算してしまうと、目の前のビールジョッキに5000円の価値を見出すことなど到底不可能だった。
「今は耐える時期だ。資産形成の初期段階は入金力がすべてを決める」
私は、カール・ポパーが提唱した「反証可能性」のないイデオロギーに染まった狂信者のように、ひたすらに投資信託を買い増した。現在の苦しい生活は、未来の自由への担保である。そう自分に言い聞かせた。
しかし、現実は私の描いた直線的な右肩上がりのグラフのようには進まなかった。
異変が起きたのは、私がNISA口座に8000万円相当(元本と含み益の合計)の仮想的な「富」を築き上げた頃だった。急激なインフレ圧力に対し、ついに日銀が重い腰を上げ、金融政策の正常化、すなわち利上げに踏み切ったのだ。
同時に、アメリカの経済指標の悪化を引き金に、長らく続いた歴史的な株高局面が終わりを告げた。AIブームを牽引していた巨大ハイテク企業の株価が軒並み暴落し、為替は急速に円高へと巻き戻った。
「円高」と「世界的な株安」。海外資産に集中投資していた私のポートフォリオにとって、それは最悪のダブルパンチだった。
証券アプリを開くたびに、私の資産は数百万円単位で溶けていった。昨日の夕方には存在していたはずの「富」が、朝起きると跡形もなく消え去っている。数字の羅列に過ぎないはずのそれが、私の精神をゴリゴリと削り取っていった。
そんな折、追い打ちをかけるように私の生活の根底が崩れた。住んでいた築40年のアパートの配管が破裂し、水漏れによる大規模な修繕と、それに伴う急な立ち退きを余儀なくされたのだ。
引っ越し費用、新しいアパートの敷金・礼金、そして水浸しになった家電の買い替え。ざっと見積もっても100万円近い現金が今すぐ必要だった。
しかし、私の銀行口座には、毎月のカツカツの生活費しか残っていなかった。資産の99%は、海の向こうの株式市場に拘束されていた。
「NISAの株を、少しだけ売ればいい」
理性がそう囁いた。しかし、暴落の真っ只中で、高値掴みした資産を「損切り」して現金化することなど、私のプライドとこれまでの苦労が許さなかった。「今売ったら、これまでの我慢がすべて無駄になる。相場は必ず回復する。ここで手放すのは愚か者だ」
私は結局、消費者金融のアプリをダウンロードした。
年利15%という、インデックス投資の期待リターンを遥かに凌駕する金利で借金をし、目の前の引っ越し費用を工面した。
その夜、段ボールに囲まれた新しい殺風景な部屋で、私はコンビニの100円のカップ麺をすすりながら、スマートフォンの画面を眺めていた。証券アプリには、依然として数千万円という評価額が表示されている。しかし、私の手元にある現金は数千円で、来月からは消費者金融への返済が始まる。
「私は、大金持ちのホームレスだ」
不意に、そんな言葉が口をついて出た。
未来の不安に備えるために、現在を徹底的に犠牲にしてきた。インフレから価値を守るために、数字上の資産を増やすことだけに執着した。しかし、貨幣の「本質」とは何だろうか。プラトンが説いたイデアのように、どこか遠くの口座に完璧な姿で存在している数字こそが富の正体なのだろうか。
いや、違う。お金とは、血の通った現在の生活を支え、不測の事態から身を守り、時には友人と笑い合う時間を買うための「道具」に過ぎないはずだ。私はその道具を磨き、ショーケースに飾ることだけに夢中になり、使い道はおろか、使うための手さえも自ら縛り付けていたのだ。
未来のリスクを恐れるあまり、私は「現在」という最も確実で価値のある時間を貧しくしてしまった。数字上の資産額という幻影に心を奪われ、今ここにある現実の生活を破綻させてしまったのだ。
これこそが、本当の意味での「NISA貧乏」だった。
翌朝、私は証券アプリを開き、大きく息を吐いてから、ポートフォリオの一部を売却するボタンを押した。確定した損失額は決して小さくはなかったが、不思議と心は軽かった。
数日後、証券口座から銀行口座へ現金が振り込まれたのを確認した私は、消費者金融の借入を全額一括で返済した。そして、久しぶりにスーパーへ行き、半額シールの貼られていない、新鮮な牛肉と少しばかり良いワインを買った。
肉が焼ける香ばしい匂いが部屋に広がる。ワイングラスを傾けながら、私はこれからの投資との付き合い方を考え直していた。
資本主義経済の中で生きる以上、マクロ経済の波やインフレのリスクから完全に逃れることはできない。資産運用は間違いなく必要だ。しかし、それは決して「今」を犠牲にする免罪符ではない。現在と未来、その絶妙なバランスの上にしか、真の豊かさは成り立たないのだ。
私は、熱々のステーキを口に運んだ。何年ぶりかに味わう、脂の乗った肉の旨味が口いっぱいに広がる。
「美味しいな」
声に出してつぶやいた。その確かな感覚こそが、今の私にとって、画面の中の何千万円という数字よりも、遥かに価値のあるものに思えた。
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