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誰も間違っていなかった夜
2021年8月17日午後5時15分頃、千葉県柏市の自宅で、妊娠29週の30代女性が一人で男児を出産した。医師はいなかった。119番通報で駆けつけた救急隊が発見したとき、新生児はすでに心肺停止の状態だった。搬送先の大学病院で死亡が確認された。
女性は6日前にコロナ陽性と判明していた。14日夜に中等症の症状が出て、柏市は15日・16日と入院先を探したが、病床逼迫を理由に受け入れ先が見つからない。17日朝、腹部の張りを訴える女性のために、今度は妊婦としての搬送先を探した。感染を理由に複数の医療機関が断った。その数時間後に自宅出産となった。
柏市保健所はこう説明している。「コロナを診療し、さらに産婦人科も診療できる医師・医療機関は限られる。今回のケースはいくつもの課題が重なってしまった」。千葉県医師会の幹部はもっと率直だった。「コロナに感染した妊産婦は、事実上、救急搬送先はない」。
誰も悪意で動いたわけではない。病院は病院の論理で断り、市は手順通りに動き、専門家は事実を語った。誰も間違っていない。それでも新生児一人が命を落とした。
この出来事は当時「医療崩壊」の象徴として報じられた。しかし、医療崩壊という診断名は本当に正しかったのか。崩壊したのは医療ではなかったのではないか。あれから5年近く、日本の議論は依然として「病床確保」「医療体制の強化」に留まっている。失敗の原因が医療現場にあるという前提を、誰も疑っていない。ここを疑うところから始めたい。
病院という聖域⑨:PCR偏重と発熱拒否が生んだ医療アクセス崩壊

合理的な判断の積み重ねが、悲劇を作った
個々の行動は合理的なのに、全体では不合理な結果になる。経済学では合成の誤謬と呼ぶ。コロナ対応はこの典型だった。
病院が感染患者を断るのは、病院の論理では当然だった。院内で感染者が出れば濃厚接触のスタッフが勤務不能になる。風評被害で一般患者も減る。防護具は足りない。コロナ患者を一人受け入れれば、病棟一つが閉鎖に追い込まれかねない。都道府県は国の方針を待った。独走して後で責任を問われるより、判断を預けた方が安全だからだ。補助金の配分権も国が握っている。官僚組織としては、これも合理的だった。
専門家会議は提言に留め、政治判断に踏み込まなかった。権限がない以上、責任も負わない。この非対称が問題を生んだ。影響力だけ持って責任を負わない者は、極端な発信をためらう理由がない。「42万人死亡」「接触8割削減」という数字は、外れても誰も問われない。だからこそ躊躇なく世に出せた。
さらに厄介なのは、データの扱いそのものが不誠実だったことだ。42万人というのは「何も対策を講じなかった場合」の極端な仮定下の試算であり、後の検証で数字の前提や数式に大きな誤りがある可能性が提示されている。だが報道過程では一切の検証が行われず、恐怖を煽る数字だけが「予測」として独り歩きした。
前提条件への批判的検証は行われず、結果が外れた後も、提示者も報道機関も訂正と事後検証の手続きを踏んでいない。ワクチン有効性「95%」が相対リスク減少であり絶対リスクでは1%未満であることも、併記されなかった。
死亡数の計上基準も曖昧で、PCR陽性の交通事故死や末期がん患者まで「コロナ死」と報道された時期がある。2021年以降の超過死亡の急増については、主要メディアも専門家組織も正面から論じることを避けた。
個々の研究者や記者を責めても仕方がない。データと政策を接続する制度的な回路が、日本には存在しなかった。不確実性や前提条件や事後検証を扱う作法が、国家として確立されていなかった。
政府は「42万人死亡」という数字を公式見解として採用はしなかった。しかし否定もできなかった。否定すれば「命より経済を優先する政府」と叩かれる。その空気に縛られて判断は漂流した。マスコミは数字を増幅し、恐怖に駆られた国民は自粛警察として互いを監視した。責任の所在は最後まで曖昧なまま残った。
厚労省は感染症対応と医療行政を別の部署で処理していた。感染症法と医療法の所管が違うからだ。縦割りの省庁組織としては、これも合理的だった。
誰も間違っていない。それでも全体は機能しなかった。理由ははっきりしている。全体を束ねる戦略がなかった。指揮統制がなかった。個別の合理性を全体の合理性に変換する機能が、この国にはなかった。

感染症は本来、安全保障の問題だ
なぜ日本は感染症に対する戦略を持っていなかったのか。答えは単純で、感染症を安全保障の問題として扱ってこなかったからだ。
これは日本に特有の認識の歪みである。米国CDCの前身は1942年の戦時マラリア対策局だった。NATOは核・生物・化学兵器への対処を統合軍事ドクトリンに組み込んでいる。検疫はもともと国境防衛の一形態として発達した。感染症サーベイランスを軍事の言葉に翻訳すれば、情報収集・監視・偵察の生物版ということになる。
水際での感染制御は国境防衛、資材の備蓄と配送は兵站、感染動向の把握と予測は情報戦、医療資源の集中投下は作戦統制——これらをまとめて「医療問題」として厚労省の所管に押し込めた時点で、日本のコロナ対応の失敗は約束されていた。
軍事の世界にC4ISRという概念がある。指揮、統制、通信、情報処理、情報、監視、偵察の頭文字を取ったもので、現代の安全保障ではこの統合的な指揮・情報体系なしに有効な対応はできない。コロナ対応を振り返ると、この要素が悉く欠けていた。
指揮については首相・厚労相・知事の間で最終決定権が終始あいまい。統制については病床確保命令すら法的根拠がなく、「要請」と「補助金」しか手段がなかった。情報についてはPCR陽性者数がFAXで報告され、集計は致命的に遅れた。偵察については、2019年末に武漢で異常な肺炎クラスターが発生した時、日本はWHOの公式発表まで独自の情報を掴めていない。
コロナ対応を振り返るときFAXが時代遅れだと笑われた。だが本質はFAXではない。誰が全体を指揮するのかという設計が、そもそも存在しなかった。通信手段をいくら近代化しても、指揮統制の骨格がなければ動きようがない。
9条の外側にある問題
最後に一つ、議論の枠組みそのものに触れておきたい。
本稿で論じたのは、憲法9条を改正するか否かという話ではない。9条の条文をどう読もうと、感染症サーベイランスの体系は作れる。諸外国のCDCに当たる機関は設置できる。統合指揮統制の制度設計もできる。問題は憲法の文言ではなく、安全保障を考えること自体をタブーにしてきた、この国の知的・制度的な構造にある。
9条を改正すれば全てが解決するわけではないし、9条があるから何もできないわけでもない。改憲派も護憲派も、安全保障の話を9条論争に回収することで、もっと根本的な制度設計の議論を避けてきた。パンデミック対応という、誰の目にも安全保障の失敗であることが明白な事例ですら、日本ではそれを「医療問題」と呼び続けている。
医療崩壊という診断名は、失敗の原因を医療現場に押し付ける。だが柏市で亡くなった新生児の命を奪ったのは、現場の医師でも看護師でも保健所職員でもない。危機に際して国家が機能するための構造が、この国にはなかった。そこに目を向けない限り、どれだけ病床を確保しても、どれだけ医療従事者を増やしても、次の危機で同じことが起きる。
次のパンデミックはもう準備を始めているかもしれない。新型インフルエンザか、鳥インフルエンザのヒト・ヒト感染か、バイオテロか。形は読めない。しかし来ることだけは確実だ。同じ夜を繰り返さないために、医療崩壊という誤診から脱して、感染症対応を安全保障の問題として置き直すしかない。これは制度の話であり、思考の枠組みの話でもある。独立国家として当然持っているべき機能を、今からでも取り戻すという話だ。







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