習近平が警告する「トゥキュディデスの罠」は歴史の誤用である

北京で行われたトランプ=習近平首脳会談の冒頭、習近平国家主席は古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスの名を持ち出した。「中国と米国は、いわゆる『トゥキュディデスの罠』を乗り越え、大国関係の新たなパラダイムを構築できるだろうか」。格調高い問いかけのように聞こえる。だが、これは歴史の巧みな誤用である。

トランプ大統領と習近平国家主席 2026年5月14日米中首脳会談 中国共产党新闻より

「罠」の前提を問う

「トゥキュディデスの罠」とは、ハーバード大学の政治学者グレアム・アリソンが2010年代初頭に広めた概念だ。台頭する覇権国が既存の覇権国を脅かすとき、戦争が起こる——アリソンはトゥキュディデスが記した古代アテナイとスパルタの戦争(ペロポネソス戦争)にこの論理の起源を求めた。

だが、この概念には致命的な欠陥がある。

そもそもトゥキュディデスの罠は、現状を維持しようとする既存大国と、現状に挑戦する台頭大国の衝突を描いたものだ。習近平はこの構図を逆手に取り、「戦争は双方の誤算から生じる」という印象を与えようとしている。しかし、現在の台湾海峡をめぐる緊張の根源を直視すれば、この論理は成立しない。

台湾の現状を変えようとしているのは、中国である。

誰が現状に挑戦しているのか

台湾は数十年にわたり、事実上の独立国家として機能してきた。米国はその現状を認め、台湾関係法のもとで関与を続けてきた。一方、中国は近年、台湾周辺での軍事演習を急増させ、「統一」に向けた圧力を強めている。

この文脈において、「罠」の構造は習近平の描くものとは正反対である。台頭する中国が台湾への強硬姿勢を続ける限り、戦争のリスクは「双方の誤算」によって生じるのではなく、中国の明確な意図と行動によって高まる。習近平がトゥキュディデスの罠を語るとき、その言葉は警告ではなく、脅迫に近い。

ユーロニュースが指摘するように、習近平の歴史的言及は台湾への警告と直結していた。「台湾問題が誤って処理されれば、両国は衝突、あるいは対立に陥る可能性がある」。この発言の順序が示すように、トゥキュディデスへの言及は外交的修辞であり、台湾問題を「構造的不可避」として包むための装置である。

歴史の証言は何を語るか

アリソン自身の研究でさえ、大国交代が必ずしも戦争に終わらないことを示している。20世紀における英国から米国への覇権の平和的移行がその典型だ。冷戦もまた、核抑止という特殊条件のもとであれ、熱戦には発展しなかった。

さらにアリソンの枠組み自体、多くの学者から批判を受けている。歴史家のジェームズ・パーマーは、「2400年前のユーラシアの辺境における都市国家間の衝突は、現代の地政学への信頼できる指針ではない」と喝破した。ハル・ブランズとマイケル・ベックリーは、むしろ中国こそが停滞の瀬戸際にあると論じる。

習近平の「罠」は誰のためのものか

習近平が2014年以来一貫してこの言葉を使い続けてきたことには、戦略的理由がある。「責任ある大国」として中国を演出し、米中の緊張を貿易摩擦や台湾問題という具体的な争点から、「大国の宿命的対立」という抽象的な構造論へと昇華させる効果がある。

だが、これは議論のすり替えである。

「トゥキュディデスの罠」が本当に意味するのは、現状維持勢力と現状打破勢力の衝突だ。もし中国が台湾への圧力をやめ、現行の国際秩序のなかで共存を選択するならば、そもそもこの「罠」は発動しない。戦争のリスクを高めているのは構造的宿命ではなく、北京の選択である。

習近平がトゥキュディデスを引用するたびに、問われるべきは一つの問いだ——「現状を変えようとしているのは、どちらか」。

その答えは明白である。

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