
体重減少を目的としたマンジャロ(一般名チルゼパチド)の自由診療使用をめぐり、規制を求める声が強まっている。「糖尿病患者以外への処方を禁止すればよい」という主張も、しばしば見られる。
供給の限られた薬を必要な患者に優先する、という発想は理解できる。しかし、ダイエット目的の使用を一律に規制することは、過剰である。問題にすべきは使用そのものではなく、選択を歪める情報の非対称性と、他者に及ぶ供給の希少性に限られる。
本稿はこの立場から、規制の対象を分類し、整理することを試みる。
議論を整理するために、混同されがちな三つの問いをあらかじめ分けておきたい。第一に、その使用を認めてよいか。第二に、生じた副作用の治療を保険給付するか。第三に、費用と責任を誰が負うか。
結論を先に述べれば、
第一は認める、
第二は給付する、
第三は過失があれば賠償・無過失であれば通常の保険診療
である。
世論の混乱の多くは、この三つを区別せずに論じることから生じている。
「保険適用の可否」と「自由診療の可否」は別問題である
「糖尿病か否か」で線を引く発想は、すでに医学的にも適切でない。
同じチルゼパチドでも、肥満症を対象とするゼップバウンドが承認されており、最適使用推進ガイドラインでも、高血圧・脂質異常症・2型糖尿病のいずれかを併存し、食事・運動療法で効果不十分かつBMI基準を満たす場合に、肥満症の治療薬として位置づけられている。糖尿病でなければ体重減少薬を使う余地がない、とは言えない。
より本質的なのは、「保険で使えるか」と「自費で使ってよいか」がまったく別の問題だという点である。
保険適用の基準は、限られた公的財源をどう配分するかの基準であり、厳格であってよい。一方、自由診療は本人が全額自費でリスクを引き受ける領域である。したがって「保険で認めない、ゆえに自費でも禁止する」という推論は、財源配分の問題と身体の自己決定の問題をすり替えている。
保険適用基準を満たさないことは、保険で使えない理由にはなるが、自費でも使ってはならない理由にはならない。
自己決定権と愚行権
リスクの存在を禁止の根拠とするなら、登山、格闘技、スキー、飲酒、喫煙、過食など、明白にリスクを伴う行為もすべて禁止しなければ一貫しない。社会はこれらを原則として禁止していない。他者に害を及ぼさないかぎり、自分の身体について自らリスクを引き受ける自由——いわゆる愚行権——が認められているからである。
痩身の動機が美容であれ健康不安であれ自己満足であれ、本人の身体に対する選択である以上、国家がその目的の当否を裁く根拠は乏しい。
医師の説明を受けたうえでの自費使用は、愚行権の範囲として尊重されるべきである。
副作用は「故意」ではない
「自ら選んだのだから副作用も自己責任であり、保険診療から外すべきだ」という主張は、健康保険制度の性格を取り違えている。
健康保険法は、給付制限の対象を限定的に定めている。給付を行わないのは「故意の犯罪行為」または「故意に給付事由を生じさせた」場合であり、「闘争・泥酔・著しい不行跡」については給付の一部または全部を制限しうるにとどまる。重要なのは、リスクを承知していたことと、疾病を故意に発生させたことが別だという点である。
登山者は滑落を、格闘技選手は骨折を、喫煙者は肺がんのリスクを承知しているが、現に生じた傷病は通常どおり保険で治療される。競技ルール内の打撃も、社会的に許容された行為であり、「故意に給付事由を生じさせた」とは扱われない。物理的に打撃を加える意思と、法的に傷病という結果を故意に生じさせたことは、区別される。
マンジャロの副作用も同様である。使用者が望むのは体重の減少であって、悪心や膵炎ではない。したがって、健康保険は本人の選択の賢愚を裁定する制度ではなく、医学的に治療を要する傷病を治療する制度であると理解すべきである。
喫煙・飲酒・運動・肥満など、本人の選択を背景とする傷病を、皆保険は原因によって差別せず給付してきた。ダイエット目的のマンジャロのみを別扱いすることは、むしろ制度の原則からの逸脱である。
副作用治療は混合診療ではない
保険診療の場で自費マンジャロの用量調整を行うことは不適切である。自由診療の管理を保険診療に付け替えるものであり、混合診療の禁止に触れる。しかし、自費使用後に悪心・便秘・脱水・膵炎の疑いなどで受診し、その症状を治療することは、これとは別である。それは自由診療の継続管理ではなく、発生した傷病に対する診療である。
混合診療の核心は、同一疾病の一連の治療において保険診療と自由診療を同時に併用する点にある。過去に自費診療を受けたという事実をもって、現在生じた独立の傷病の治療まで保険から除外するのは、概念の不当な拡張である。原因が医学的に断定困難な症状を、生じた傷病として診療することまで不正と扱うことはできない。
少なくとも明確に問題となるのは、明白な原因を認識しながら虚偽の病名を用いて保険請求する不実記載である。実際、医療機関には、闘争・泥酔・著しい不行跡や詐欺等を認めた場合に保険者へ通知する義務があり、原因を一切顧みなくてよいわけではないが、それは限定された範囲の話である。
救済制度の対象外と、保険診療の対象外は別である
適応外のダイエット目的でGLP-1受容体作動薬を使用し重篤な副作用が生じた場合、医薬品副作用被害救済制度の対象外となる可能性が高い。これは事実である。しかしこれは、製薬企業の拠出金で運営される無過失の上乗せ補償を受けられるか、という問題である。
適応外使用まで含めれば、製造販売業者が関与しない使用態様の責任まで負うことになり、制度として整合しない。適応外を選択した以上、上乗せ補償が及ばないことは、自己決定の帰結として一貫する。
これに対し、生じた副作用を健康保険で治療できるかは、別の問題である。上乗せ補償の対象外であることを理由に、通常の傷病治療まで保険から除外するのは論理の飛躍である。
提供者の責任——過失と無過失の区別
説明義務の怠慢、禁忌確認の不足、無診察処方、誇大広告、副作用対応の放棄があれば、提供者は当然に責任を負う。過失があれば損害賠償の対象となる。
一方、適切に説明し同意を取得し、医学的に許容される範囲で処方したにもかかわらず副作用が生じた場合まで、提供者に当然に責任を負わせるのは妥当でない。副作用は望まれざる結果である。内科的治療に起因して外科的合併症が生じた場合に、外科的治療の費用まで内科に負わせないのと同様に、自由診療のみを特別に扱う理由はない。
要するに、過失があれば賠償、無過失であれば通常の傷病として保険診療、という整理が筋である。
規制対象の分類——「選択を成立させる規制」と「選択を塞ぐ規制」
規制が一切不要だというのではない。必要なのは、規制の対象を分類し、整理することである。
第一の類型は、選択を成立させるための規制である。すなわち、説明義務、リスク表示、適応外使用であることの明示、「安全」「副作用なし」「誰でも痩せる」といった誇大広告の規制、偽造品・転売・無診察処方の取り締まりである。これらは支持されるべきである。
第二の類型は、選択そのものを塞ぐ規制である。成人が説明を受けて自費で使用すること自体の一律禁止や、保険適用基準をそのまま自由診療の禁止基準に転用することがこれにあたる。批判の対象とすべきは後者である。
ここで、市場競争があれば質は自ずと改善するという楽観論には留保が要る。価格・利便性・接客といった観察可能な属性については競争が機能する。しかし安全性は、稀で遅発的かつ原因帰属の困難な副作用に関わるため、購入前に観察しにくい信用財である。
この種の属性では、競争はむしろ観察可能な要素に流れ、安全管理が後回しになりうる。したがって、説明義務や広告規制は自由を制限する規制ではなく、自由な選択を成立させ市場競争を健全に機能させるための基盤と位置づけられる。
供給という外部性——唯一の実質的制限の根拠
ただし、供給の問題だけは性質を異にする。自己加害の自由は認められるが、他者の医薬品を奪うことは別である。
マンジャロが糖尿病や肥満症で医学的に必要とする患者に供給されなくなるなら、それは自己決定の問題ではなく、他者への外部性の問題となる。
実際、厚生労働省は在庫が逼迫した時期に、医薬品卸売販売業者に対し、薬事承認範囲外の目的での使用が明らかな場合には納入しないよう求め、糖尿病治療を行う医療機関への優先供給を要請した。他者への危害を防ぐための制限は、自由を重視する立場からも正当化される。
もっとも、これは供給不足への対応であって、ダイエット目的の使用が道徳的に不当だから禁止する、という議論ではない。現に供給が回復した後は通常出荷に戻っており、恒久的な使用禁止ではなく一時的な供給管理にとどまる。糖尿病患者への供給優先は正当であるが、供給回復後もなお成人の選択を禁じ続けることは、別の問題である。
「医療の特別性」論への応答
これに対しては、医療には免許・処方箋・保険収載といった規制の枠組みがあり、公的な安全網を背景に未確立の治療を流通させる構造を常態化させないために規制が必要だ、という反論が想定される。
しかしマンジャロは、糖尿病治療薬としてすでに保険収載されている確立した医薬品であり、その適応外使用にすぎない。未確立の治療とは性質が異なる。もちろん、対象集団や使用目的が変われば、安全性の確認や説明義務はより重要になる。しかし、それは情報提供と診療実体を強化すべき理由であって、自費使用そのものを一律に塞ぐ理由ではない。
したがって、この反論はマンジャロには当てはまらない。残る正当な懸念は供給に関するものであり、それは前節で扱ったとおりである。
医療を一括して「特別」とする議論は、本件では成立しない。
善意による管理を、疑う
規制すべきは、本人の選択そのものではない。選択を歪める情報の非対称性——誇大広告、説明不足、無診察処方、偽造品——と、他者に害を及ぼす供給の不足。規制をこの二点に限れば、議論は崩れない。
副作用は、いかなる医療においても生じうる望まれざる結果であり、自由診療のみを取り出して患者の自由や保険給付を制限する根拠はない。リスクを禁止の根拠とするなら、登山も格闘技も飲酒も喫煙も、同じ論理で制限しなければ一貫しない。健康保険は、本人の選択の賢愚を裁定する制度ではなく、医学的に必要な治療を行う制度である。
副作用を懸念して自由診療を規制することは、一見、温情的で良心的に映る。しかし、個々の人生の問題を医療化し、管理しようとする姿勢は、確実に人の自由を削っていく。
本来、人間は可能なかぎり自由に生きるべきであり、失敗も成功も、その人の人生の価値にほかならない。まだ訪れてもいない将来を過度に怖れて事前に選択を奪い、仮にそれで結果が良かったとして、それははたして自由に生きたと言えるのだろうか。成人した子の人生に、いつまでも口を出し続ける親のような管理は、やめるべきである。
これは医療の運用論に見えて、実は自由社会の根本に関わる問題である。そうした驕った管理が結局はうまくいかないことは、社会主義の崩壊が何よりも証明している。たとえ心からの良心に発するものであっても、倫理的にも、実利的にも、過剰な規制は厳に慎むべきである。
最後に、あの警句を思い出したい。
——地獄への道は、善意で舗装されている。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2025年6月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。







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