札幌の初夏を代表するイベント、YOSAKOIソーラン祭りが今年も開催される。

大通公園を中心に、派手な衣装をまとった踊り手が、大音量の音楽に合わせて集団演舞を披露する。好きな人にとっては、北海道に元気を与える一大イベントであり、参加者にとっては仲間と一つの作品を作り上げる貴重な機会だろう。
一方で、札幌市民の中には、YOSAKOIソーランを冷ややかに見る人も少なくない。
「あれは北海道の伝統なのか」
「ただの踊りのコンテストではないか」
「ヤンキー踊りにしか見えない」
その違和感は、単なる悪口として片付けてよいものだろうか。
北海道の古い伝統ではない
YOSAKOIソーラン祭りは、北海道に古くから伝わる祭礼ではない。
始まったのは1992年。高知県のよさこい祭りで使われる鳴子と、北海道民謡のソーラン節を組み合わせて作られた、平成生まれの都市型イベントである。
第1回は参加10チーム、参加者1,000人、観客動員数20万人で始まった。現在では約270チーム、約27,000人が参加し、公式発表では観客動員数が約200万人に達する巨大イベントへと成長した。主催者自身も「北海道の初夏の風物詩」と位置づけている。
新しい祭りであること自体は、もちろん問題ではない。
どのような伝統にも始まりがある。新しい文化が地域に根づき、世代を超えて受け継がれていくこともある。YOSAKOIソーランが多くの参加者や観客に感動を与え、札幌の観光にも貢献してきたことは否定できない。
しかし、歴史の浅い創作イベントが、いつの間にか「北海道の伝統」のような顔をし始めると、違和感を抱く人が出るのも当然である。
なぜ「ヤンキー踊り」に見えるのか
YOSAKOIソーランを嫌う人が使う言葉に、「ヤンキー踊り」がある。
この表現は踊り手に対して失礼にもなり得るが、なぜそう見えるのかを考える価値はある。
派手な衣装、大音量の音楽、威勢のよい掛け声、統制された集団演舞、過剰なほどの笑顔、仲間との一体感。そこには、伝統的な民俗芸能というより、体育会系の部活動、学生サークル、イベント会社の演出、かつての暴走族文化に通じる集団美学が混ざっている。
これは悪い意味だけではない。
地域青年団が衰退し、企業運動会も減り、若者が集団で熱狂する場所が失われた時代に、YOSAKOIソーランは、そのエネルギーを合法的で健全な形に受け止めてきた。
言い換えれば、YOSAKOIソーランは、平成日本が作った「健全化された集団熱狂」なのかもしれない。
だから、参加する人にとっては強い達成感や居場所になる。一方、集団的なノリを好まない人には、暑苦しく、騒がしく、近寄りがたいものに見える。
この落差こそが、YOSAKOIソーランが熱烈に支持される一方で、根強く嫌われる理由ではないか。
過去の民間アンケートでも、「好き・どちらかというと好き」が37%だったのに対し、「嫌い・どちらかというと嫌い」は35%と、評価は大きく割れていた。嫌いな理由として、伝統性を感じないこと、交通規制、音楽の大きさ、踊り手のマナーなどが挙げられている。
古い調査であり、現在の札幌市民全体の評価を示すものではないが、賛否が分かれる祭りであることは確かだろう。
「街は舞台だ」の裏側
主催者は「街は舞台だ」を合言葉に掲げている。
祭りの期間中、札幌の街中が演舞会場になるという意味では、実に魅力的な言葉である。
しかし、舞台にされる街には、そこで生活している人がいる。
道路は交通規制され、路線バスは迂回し、地下鉄や歩道は混雑する。祭りを楽しむ人にとっては非日常でも、関心のない住民にとっては、日常生活への一方的な介入になり得る。
地域会場の運営を研究した北海道大学の論文でも、駐車場や音に関する住民からの苦情が紹介され、地域住民に受け入れられる祭りを目指す必要性が指摘されている。
祭りには、ある程度の騒音や混雑が伴う。それをすべて排除すれば、祭りは成立しない。
だが、「祭りなのだから我慢して当然」と考え始めた瞬間、祭りは地域住民のものではなくなる。
学校で踊らされるYOSAKOI
さらに興味深いのは、YOSAKOIソーランが学校教育にも入り込んでいることである。
札幌市教育委員会は、小学校高学年を対象とした「Street of the Soran」という保健体育教材を公開している。振り付けの指導や確認に活用できる教材で、札幌のよさこいチームによる「使える振り付け集」まで収録されている。
学校側から見れば、使いやすい教材なのだろう。
集団演舞は運動会で映える。地域性も打ち出せる。子どもたちが協力し、一つの作品を完成させる達成感もある。
しかし、ここには慎重さが必要だ。
YOSAKOIソーランは、古くから受け継がれてきた北海道の民俗芸能ではない。1990年代に作られたイベント文化である。それを学校で扱うなら、「北海道の伝統」として無批判に教えるのではなく、いつ、誰が、どのように作った文化なのかも伝えるべきだ。
また、大声、掛け声、集団行動、笑顔、一体感を求められる演舞が苦手な子どももいる。
地域文化教育と、身体を使った同調訓練は、紙一重である。
華やかな祭りの影
YOSAKOIソーランには、忘れてはならない過去もある。
2000年には、大通公園の会場で爆発物使用殺人未遂事件が発生し、10人が負傷した。北海道警察の年表にも明記され、祭りの公式資料でも、この年に大通公園で爆弾事件が発生し、審査が中止されたことが記録されている。
もちろん、この事件を理由に祭りそのものを否定するのは間違っている。
だが、祭りが巨大化すれば、そこには警備、交通規制、商業化、ブランド管理、主催権、住民との摩擦といった問題が生まれる。
YOSAKOIソーランは、単なる踊りではない。巨大な都市イベントなのである。
祭りは誰のものか
YOSAKOIソーランをやめるべきだと言いたいのではない。
踊る人にとっては、人生の大切な思い出になるだろう。見る人にとっては、札幌の初夏を感じる風物詩である。新しい文化が地域に根づくことも否定すべきではない。
しかし、「市民の祭り」を名乗るなら、踊る人や観客だけでなく、踊らない人、見ない人、騒音や混雑を負担する人もまた、市民である。
学校で扱うなら、参加を楽しめる子どもだけでなく、集団演舞を苦痛に感じる子どもにも目を向けなければならない。
YOSAKOIソーランは、北海道の古い伝統ではない。
だからこそ、伝統という言葉で批判を封じるのではなく、どのような祭りとして地域に根づかせるのかを、今も問い続ける必要がある。
祭りは誰のものか。
踊る人のものか。見る人のものか。行政のものか。学校のものか。それとも、そこで暮らす住民のものか。
YOSAKOIソーランが本当に「市民の祭り」になれるかどうかは、その問いにどう答えるかにかかっている。








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