
私が私淑する明治の知の巨人・安岡正篤先生は、御著書『「人間」としての生き方』で次のように述べておられます--我々が始終心がけなければならないことは、平生できるだけ人物の「器度」を養って置くことである。器度とは平たく言えば大いさである。由来、宇宙人生は複雑な矛盾の統一であって、一事に拘泥(こうでい)すれば身動きが取れない。(中略)小廉曲謹(しょうれんきょくきん…つまらぬ潔さを間違って行う)や悲歌慷慨(ひかこうがい)に終わるのは、いずれも根本において器度が狭小なためと言わなければならない。我々はすべからく大矛盾に堪え、これをほど良くおさめるだけの器度と力量を手落ちなく備えるべきである。
「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」という格言にある通り、ちっぽけな世界に生きている人は、ちっぽけな世界でしか物事を考えられず、小さな人間にしかなり得ません。出来るだけ多くを見、多くを経験し、「世界はこんなにも広いのか!?」と知る中で初めて、器度とか度量とかいうものが、つくられて行くように思います。
私は、人間社会を上回る複雑系は存在しないとの認識を有しています。神が創りたもうた人生というのは、簡単に割り切れるものでも、画一的に決まるものでもありません。「由来、宇宙人生は複雑な矛盾の統一であって、一事に拘泥すれば身動きが取れない」中で、『易経』は大いなる気持ちを持つべく次のように、「天行健なり。君子は以って自彊して息(や)まず。地勢坤なり。君子は以って厚徳載物」と教えています--太陽は一日も休むことなく動いている。それと同じように君子たるものは一日も休むことなく、努力し続けないといけません。この母なる大地はあらゆる生きとしいけるものをはぐくみ育てている。それと同じように君子は大きな度量を持って、全てのものを受け入れないといけません。
私は嘗て此の「北尾吉孝日記」で『知的な人とは』(17年8月1日)という中で、多様性を受け入れられない人/柔軟な思考力を持っていない人/凝り固まって自分の殻から出られない人、は少なくとも知的ではないと述べたことがあります。「賢愚一如:けんぐいちにょ」と言われるように、天という絶対的存在から見たらば、人間の知恵の差など所詮微々たるもので、人間の差などに意味はありません。自分が知らない世界が如何に広いか、即ち天が如何に偉大かを理解できねば何時まで経っても、相対観からの解脱かなわず小さな人間にしかなり得ないのです。
安岡先生は、人物であるための条件に、1.「骨力:こつりょく」に富んでいること/2.「理想」や「志」を持つこと/3.「胆識」を備えること、として第一に骨力に富んでいることを挙げておられます。骨力とは、「人生の矛盾を燮理(しょうり…やわらげおさめること)する力」のことで、人間本来持っている生命力(…包容力・忍耐力・反省力・調和力等)のようなものを指して言います。骨力が気力を生み、次第に精神的に発達すると生きる上での目標・目的となる「志気」「理想」を持つようなって行きます。人間やはり此の骨力というものが、器度を備える根本だということです。
編集部より:この記事は、「北尾吉孝日記」2026年6月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。







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