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日本の国旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」の創設は、2026年6月30日の衆議院本会議で可決されましたが、国会論戦は参議院へ持ち越されています。この法案は、公然と国旗を損壊・除去・汚損した場合に2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金を科す内容ですが、表現の萎縮を招く懸念から反対意見も多く、慎重な審議が続けられています。
国旗が国家の象徴であり、一定の法的保護の対象となり得る点については、私も同感です。ただ、日本で長年、社会問題として繰り返し議論されてきたのは、教育現場を中心とした君が代斉唱や起立の問題でした。ところが、立法論として前面に出てきたのは国歌ではなく国旗損壊罪だったことに違和感を覚えます。
今回、この問題を改めて各国の事例と比較しながら考えてみると、街頭での抗議活動などでは国旗が争点になることは少なくありませんが、国家観や歴史観、さらには国民統合という、より本質的な論争は国歌を巡る論争のほうが多いように思います。国旗は見る人によって意味を委ねられる「沈黙する象徴」ですが、国歌は歌詞を通じて国家の歴史観や価値観を直接語るからです。
その意味では、同じ国家の象徴であっても、国旗と国歌は法的にも政治的にも同じように扱うべきではなく、それぞれの性格に応じて別個に議論されるべきではないかと思います。そして、私が最も疑問に思うのは、この法律によって本当に国旗への尊厳が高まるのかという点です。
率直に申し上げれば、私はその効果には懐疑的です。国旗への尊厳を高める必要性は大いに認めるものの、国民の愛国心が法制度の改正によって高まった歴史上の事実を、少なくとも私は知りません。それは法律や学校教育によって育まれるものではなく、国民の日々の社会生活や地域活動、公共への参加を通じて自然に培われるものではないでしょうか。
残念ながら、日本では幼い頃から塾に通い、友人より一歩でも先に出ることを重視する競争型の教育が強く、感受性の高い中高生時代に、日本人に生まれてよかったという実感を持つ機会は少ないように思えます。そのような教育や社会のあり方が続く限り、国旗への自然な敬意や公共心を育てることは容易ではないように思います。
私には、この法律の成立は国旗への尊厳を高めるというよりも、この法律に賛成する人々へ「国旗を守った」という自己満足感を与える効果のほうが大きいように思えてなりません。
私が初めて米国に駐在した頃、強い印象を受けたことは、パレードや国旗掲揚、国歌斉唱など、国家の象徴に接する機会が日本とは比較にならないほど多かったことでした。当時の私は、多様な民族や文化から成る人工的な社会では、人々を一つにまとめるために、このような象徴的な行為が必要なのだと理解していました。
ところが、その後、家族を伴って再び米国に赴任し、現地の社会や生活に深く溶け込むにつれて、その理解は大きく変わりました。米国には国定教科書はなく、日本のような画一的な愛国教育もありません。
しかし、人々の日常生活の中には、地域社会への参加、ボランティア活動、学校や教会での交流、地域の祭りやスポーツを通じて、「この国の一員である」という意識を自然に育む無数の営みが存在していました。
そのことに気づいたとき、私は大きな衝撃を受けました。私はそのとき初めて、国を愛する気持ちは家族を愛する心や郷土を愛する心と同じく、人間の内側から自然に育つ文化的な感情であり、制度や法律によって教え込まれる文明とは本質的に異なるものであることを実感しました。
この内側から湧き上がる気持ちが伴わないまま、法制度によって国旗への敬意だけを求めても、それは形式に終わるだけではないように思います。場合によっては、国旗が国民統合の象徴ではなく、国家への忠誠や服従を測る象徴へと変質してしまう危険性さえあるのではないでしょうか。
この法案の可決を契機に、私は改めて「国家の象徴とは何か」「法は何を守るべきなのか」という点について考えさせられました。
衆議院での可決を受け、法案の審議は参議院に移りますが、与党が少数の参議院で法案を可決・成立させるには野党の協力が不可欠です。しかし、野党は一切の国会審議に応じない構えを崩していないことから、今国会での成立が不透明な状況となっているとの報道が相次いでいます。緊急を要する問題ではないだけに、採決の前に中身のある討議が行われることを期待したいものです。
2026年7月4日 北村隆司(NY在住)







コメント
記事の指摘は鋭い
氏の議論の核心をなす一点――「国民の愛国心が法制度の改正によって高まった歴史上の事実を、少なくとも私は知らない」「米国には国定教科書も画一的な愛国教育もなく、愛国心はもっぱら草の根から自然に育つ」という見解については、明確に反論せざるを得ません。氏が自らの在米体験から導いたこの前提は、少なくとも現在の米国においては、事実に反しているからです。
結論から言えば、米国の愛国心は「自然発生する文化」であると同時に、国家が法・大統領令・州法・予算措置を駆使して意図的に設計・注入している「制度的インフラ」に支えられています。氏の言葉を借りるなら、それは純然たる「文化」ではなく、むしろ高度に構築された「文明」の側面を色濃く持つのです。以下、その具体的な仕組みを漏れなく挙げてみたいと思います。
第一に、公的諮問機関と大統領令による愛国教育の推進です。2020年の大統領令(EO13958)によって「1776年委員会(1776 Commission)」が設置され、2025年の大統領令で再設置されました。その目的は連邦官報にも明記されたとおり、まさしく「愛国教育(Patriotic Education)」であり、建国の父・独立宣言・憲法制定会議・独立戦争といった建国史を肯定的に伝えることにあります。同委員会の任務には、国立公園・戦跡・記念碑・博物館・墓地といった場での愛国的活動の提供までもが含まれています。通常の法律ではなく大統領令ベースである点に制度的限界はあるものの、国家が歴史教育を通じて建国の理念を伝える意志を制度化していることは疑いようがありません。
第二に、知識を評価・顕彰する表彰制度です。2025年の大統領令は、建国の父・独立宣言・憲法制定会議・独立戦争などの知識を表彰する「Presidential 1776 Award(1776アワード)」を示しています。これは単なる精神論ではなく、子どもたちに建国史と憲法の知識を実際に学ばせ、その成果を国家が表彰する仕組みにほかなりません。
第三に、法制化された教育プログラムと卒業要件です。連邦資金を受けるすべての教育機関に対し、9月17日の「憲法記念日(Constitution Day)」前後に合衆国憲法に関する教育プログラムの実施を事実上義務づける連邦法が存在し、教育省自身がその適用を明言しています。氏が「日本にはない画一的仕組み」と評したものは、まさに連邦資金を梃子とした形でここに存在するのです。さらに、州によっては、帰化申請時の市民権試験(Civics Test)と同等の公民・歴史テストへの合格を高校の卒業要件として州法で課している例もあります(NCESの整理による)。
第四に、予算・グラント(補助金)を通じた誘引です。2025年の大統領令等は、関係機関に対し、愛国教育を促進する教育プログラムへ連邦資源・連邦グラントを優先配分するよう指示しています。国家が予算という強力なインセンティブによって、愛国教育の実効性を担保しているわけです。
第五に、青少年育成・社会施設・建国記念事業との連動です。連邦法上に位置づけられたJROTC(ジュニア予備役将校訓練課程)は、単なる軍事訓練ではなく、「市民性・合衆国への奉仕・個人の責任」を教える制度として機能しています。加えて、偉人を顕彰する「アメリカン・ヒーローズ神殿(National Garden of American Heroes)」の復活、そして建国250周年祝賀事業(Task Force 250)と学校教育との連動など、国家的な記憶形成と教育とを一体化させる制度が整えられています。祝祭・記念事業・歴史教育を結びつけるこれらの営みは、まさに「制度による愛国心の演出」と呼ぶべきものでしょう。
こうして列挙してみると、氏が敬意を込めて描いた「自然に育つ米国の愛国心」の背後で、いま米国は国家の明確な意志として、愛国教育を制度化・予算化しつつあることが浮かび上がります。氏が体験された1980年代・90年代の米国と、2025年以降の米国とは、この一点において、もはや別物と言ってよいかもしれません。氏の描く地域活動・スポーツ・教会・ボランティア・学校行事といった草の根の営みは確かに実在します。しかしその背景には、建国史・憲法・国旗・退役軍人・戦没者・国立公園・独立記念日といった象徴を、制度として国民に伝える仕組みが厳然と存在するのです。自然に見えるものほど、実は制度によって支えられている――これが実相ではないでしょうか。
そのうえで私が申し上げたいのは、米国の事例から学ぶべきは「国旗を罰則で守ること」ではない、ということです。学ぶべきはむしろ、国民が自分の国の歴史と公共生活に参加する機会を、教育・記念行事・地域参加・予算措置を通じて社会全体で厚く用意している、その建設的な制度設計の姿勢のほうです。私たちが真に国旗への尊厳や公共心を高めたいと願うのであれば、罰則の創設で議論を終わらせるのではなく、「いかにして公民としての誇りや建国の歴史観をポジティブに教育・社会制度へ組み込むか」という、制度と感情の両輪による建設的な立法論へと議論を昇華させる必要があるのではないでしょうか。