いま、アメリカ・カナダ・メキシコの北中米3カ国による史上初の共催で、2026年のワールドカップが開催中だ。FIFA(国際サッカー連盟)が主催するこの大会は3カ国・16都市を舞台に行われ、48の代表チームが出場する。現在、FIFAに加盟する国・地域は211。国連加盟国数を上回る。
世界中が注目する大会の起源は驚くほど小さな場所にある。ロンドンの一軒のパブである。
さて、競技そのものはいつ生まれたのか。そもそも私たちが「サッカー」と呼んでいるものは何なのか。歴史を振り返ってみたい。

決勝戦が行われるメットライフ・スタジアムことニューヨーク・ニュージャージー・スタジアム Wikipediaより
サッカーかフットボールか
日本では「サッカー」と呼ばれるが、世界の多くでは単に「フットボール」と呼ばれている。FIFAは「国際サッカー連盟」と日本語で訳されているが、正式名称は「Fédération Internationale de Football Association」で、直訳すると「国際フットボール連盟」である。
本稿では、主として「サッカー」と表記する。
ちなみに、日本や米国での「サッカー」という呼び方は、「Association」(協会)の「soc」が「soccer」に変化したものだ。
また、ここでの「ワールドカップ」とは、正式には男子の大会である。女子の大会は1991年、中国で開催され、優勝は米国だった。日本にとって、ワールドカップで世界一になった記憶を持つのは、女子代表だ。2011年、東日本大震災のわずか4カ月後、なでしこジャパンは米国を破って優勝している。
世界各地で発生 ボールを蹴るという行為の普遍性
ボールを蹴るという遊びそのものは、特定の文明に限定されたものではない。
FIFAが公式に「最古の証拠が残る形態」と認定しているのは、紀元前3世紀ごろの中国で考案された軍事訓練「蹴鞠(しゅうきく)」である。革製のボールを竹竿のゴールへ、手を使わずに蹴り入れて勝敗を競った。
この競技は7世紀ごろ、日本へと伝わり「蹴鞠(けまり)」となる。ただし日本では勝敗を競う形式ではなく、円陣を組んで鞠を落とさずに蹴り続ける協調的な遊びへと変化した。
古代ギリシャには「エピスキロス」、ローマには「ハルパストゥム」、中世イタリアには「カルチョ」、フランスには「ラ・シュール」といった類似の球技が存在する。
英国にも中世以来「モブ・フットボール」と呼ばれる群衆競技があった。村全体が参加し、人数もルールも曖昧なまま、隣村の目標地点へボールを運ぶ。負傷者も多く、1314年にはエドワード2世が禁止令を出した記録も残るが、それでも消えることはなかった。
産業革命のロンドン 近代サッカーの誕生
近代サッカーの直接的な起点は19世紀半ばの英国にある。
産業革命によって労働者が都市へ集中し、1850年代以降、土曜午後の半休制度が広がると、工場労働者や職人たちは余暇にボールを蹴るようになる。工場、教会、警察、パブなどを単位としたクラブが各地に生まれ、1830〜1860年の間にイングランドには70以上のクラブが存在したとされる。
一方、エリート層の子弟が通うパブリック・スクールでは、規律と身体訓練の一環としてフットボールが教育に組み込まれていた。しかし学校ごとにルールは異なり、対外試合のたびにその場で規則をすり合わせる必要があった。
1863年 ルールの統一と分岐
1863年10月26日、ロンドンのパブ「フリーメイソンズ・タバン」に複数のクラブと学校の代表が集まり、ルールの統一が試みられた。
最大の争点は「ボールを持って走ること」を認めるかどうかである。これを支持した勢力は後にラグビーへと分岐し、反対派は新たな競技体系を確立した。
同年12月、ルールが確定し、「フットボール・アソシエーション(The Football Association=FA)」が誕生する。日本語訳は「イングランドサッカー協会」だ。
1871年にはラグビー側が「ラグビー・フットボール・ユニオン(Rugby Football Union=RFU)」を設立し、両者は完全に分離することになる。
なおサッカーでは、英国はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4協会に分かれており、国際大会にも英国代表ではなく4つの代表チームがそれぞれ参加する。英国全体を統括する単一のサッカー協会は存在しない。
アマチュアからプロへ──階級と競技の変質
当初、FAはアマチュア主義を原則としていた。しかし19世紀後半、北部イングランドの工業都市で労働者階級のサッカークラブが台頭する。選手たちは生活のために報酬を必要とし、実質的なプロ化が進行した。
その転換点を象徴するのが1883年のFAカップ決勝である。労働者階級中心のブラックバーン・オリンピックが、名門オールド・イートニアンズを破って優勝した。パブリック・スクール出身者が中心だったクラブの時代が終わり、「ジェントルマンの競技」は大衆スポーツへと姿を変え始める。
1885年、FAはついにプロ選手の存在を公式に認めた。ロンドンのジェントルマン層は、競技の主導権を北部の労働者階級へ譲ることになる。
同時にラグビーでも同様の対立が起き、北部クラブは後に独自リーグを形成した。スポーツは階級構造そのものと結びつきながら発展していく。
帝国の副産物 世界への拡散
国内でこうした対立が続く一方で、サッカーはすでに英国の外へと広がりはじめていた。
19世紀後半の英国は、世界最大の海洋・商業帝国だった。ただしここでいう「帝国」とは、植民地だけを指すものではない。鉄道・貿易・移民・企業活動によって広がった、英国発の経済圏全体を意味している。
サッカーが世界に広まった最大の理由は、競技そのものの魅力以前に、このネットワークにある。
鉄道技師、軍人、商人、教師。彼らは赴任先でボールを蹴り、それが現地に定着した。
アルゼンチンでは1867年、英国人鉄道労働者が試合を行った記録が残る。ウルグアイでは英国系教育者がクラブ文化を育て、鉄道会社のチームが後の名門へと発展した。インドでは駐留軍と行政機関が競技を導入し、当初は英国人中心のスポーツだった。
ブラジルでは1894年、英国帰りの鉄道会社員チャールズ・ミラーがボールとルールを持ち帰ったとされるが、彼は創設者というより普及の媒介者と見る方が実態に近い。
この拡散は、植民地という枠にも収まらない。
ロシアでは1887年、ランカシャーの紡績業者チャーノック兄弟がモスクワにサッカーを持ち込み、自社工場の労働者チームを作ったとされる。
中国でも、上海や天津など港湾都市に拠点を置いた英国人商人や宣教師、そして米国系キリスト教青年会(YMCA)を通じて、サッカーは19世紀末から学校教育の中で広がっていった。
単純さという拡張力
サッカーの普及には構造的な単純さもある。ボール一つと空き地さえあれば成立し、言語や文化に依存しない。この最小限のルール体系が、都市から農村まで、富裕層から労働者階級までサッカーを広めた。
自分たちのスポーツにしていく
伝わった先でサッカーは単なる輸入文化では終わらなかった。
1911年、インドの地元クラブ「モフン・バガン」が、英国人が主催してきた国内大会「IFAシールド」の決勝で英国軍チームを破り、優勝する。裸足の選手たちが、スパイクを履いた英国軍チームを破ったこの試合は、象徴的な出来事として記憶されている。
南米でも同様に、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルは英国から導入された競技を自分たちの社会の中で発展させ、やがて世界の中心へと押し上げていく。
ワールドカップ、開催へ
1904年、FIFAはパリで設立された。主導したのは英国ではなく、フランスを中心とする大陸欧州の協会である。
その背景には、英国サッカー界の独特の立場があった。
当時、国際サッカー外交の窓口は事実上イングランドサッカー協会(FA)が担っていた。1902年、オランダサッカー協会が欧州統一組織の構想を持ちかけた際、FAはこれを退けている。自分たちこそが競技の本家であり、後発の国際組織に対等な一加盟国として加わる理由はない――そうした自負があったとされる。
その一方で、FAは競技運営をめぐる理念にも強いこだわりを持っていた。国内ではすでにプロ化が進んでいたが、国際舞台では「アマチュア精神」を重視し続けた。
この考え方は、やがてFIFAとの対立につながる。当時FIFAは、国際大会に出場するため仕事を休んだアマチュア選手に対し、失われた賃金を補償する制度を認めようとしていた。しかし英国の4協会は、たとえ補償名目であっても金銭の支払いは実質的な報酬であり、アマチュア主義を損なうと反発した。
1928年、4協会はFIFAを離脱する。英国は1930年・1934年・1938年の3大会を欠場することになる。
復帰は1946年。1950年、英国4協会のうちイングランドが初めてワールドカップに出場するが、アマチュア主体の米国代表に敗れるという歴史的な敗戦を喫した。
米国という例外
世界がサッカーに収れんしていく中で、米国だけは別の道を歩んだ。
野球、アメリカンフットボール、バスケットボールが先に独自進化し、サッカーは主流にならなかった。1950年、米国代表がイングランドを破った試合も、国内では大きな社会的関心を集めなかったとされる。
1863年、ロンドンの一室で定められたルールは、現在までに世界のほぼすべての国と地域で理解される共通言語となった。
それは英国が世界を支配したからではない。むしろその逆である。世界がこの競技を受け取り、自らの文化として再構築した結果だ。今や、サッカーは、世界で共有されるスポーツとなった。
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2026年7月7日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。







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