地域包括ケアという天下の愚策:厚労省は「在宅神話」を解体せよ(後編)

東 徹

前編では、過疎地問題の核心は高齢化問題であり、大規模ケアキャンパスを核とした集住が、その受け皿になると論じた。

過疎地を守るという幻想:大規模ケアキャンパスを核としたコンパクトタウンへ(前編)
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後編は、それを実現するための介護制度の話である。流れは単純だ。

  1.  「住み慣れた家で最期まで」支えることは、もう成立しない。
  2.  高齢者の終の住処として集住が必要。
  3.  集住を出来高払いにすれば、過剰なサービスが増えるので包括払いに。
  4.  本人希望の充足と介護事業者の収益源の両立のため、混合介護を大幅に解禁。

順に見ていこう。

「住み慣れた家で最期まで」は、もう成立しない

先に断っておくが、「住み慣れた家で最期まで」は政府の正式な標語ではない。地域包括ケアシステムの公式な文言は、

「可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで」

である。

国は在宅医療・介護を推進してきた。しかし、現在の自宅に住み続けられることまで、制度上保障しているわけではない。「住み慣れた地域」が、いつの間にか「現在の自宅」へと読み替えられてきたのである。

だが、その期待を支える人材は、もう残っていない。

訪問介護職の有効求人倍率は、令和6年度に14.74倍。同年度の全職業平均1.25倍の約12倍であり、日本で最も人が採れない職種の一つだ(厚生労働省「職業安定業務統計」2024年度)。

令和6年度調査でも、訪問介護員の24.0%、ほぼ4人に1人が65歳以上である(介護労働安定センター「令和6年度介護労働実態調査」2025)。

訪問介護には、介護そのもの以外にも、利用者宅への移動や駐車、記録の時間がかかる。点在する戸建てを一軒ずつ回る介護が、この人員で維持できるはずがない。

家族が限界を超えるまで在宅が引き延ばされ、転倒や誤嚥が起きれば、最後は救急車を呼ぶ。救急搬送された後は自宅へ戻れず、行き先も決まらないまま入院が長引く。いわゆる社会的入院である。

「家で最期まで」は、しばしば救急車で終わる在宅である。

本人が判断できる間には住み替えを選べず、判断力を失ってから、自分では選んでいない病院や施設へ移される。これは本当に、本人の尊厳を守る制度だろうか。

もちろん、在宅介護のすべてを否定するつもりはない。介護が軽いうちや家族の支援が得られる場合、利用者が近くに集まる都市部などでは、訪問介護は今後も必要である。

しかし、独居で認知症が重く、一日に何度も介助や見守りが必要な人まで、戸建て訪問で支えることを全国の標準モデルにするのは不可能である。

高齢者の終の住処として、集住が必要だ

集住と聞くと、高齢者を巨大施設へ収容する姥捨て山を連想する人がいる。しかし、私が提案する集住はそれとは正反対である。

一般住宅から見守り付き住宅、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)、グループホーム、特養、医療対応住宅までを同じ生活圏に置き、心身の状態に応じて近くへ住み替えていく。前編で示した大規模ケアキャンパスは、その器である。

同じ生活圏内で住み替えられれば、家が変わっても、なじみの店や診療所、人間関係を保ちやすい。「住み慣れた家」は手放しても、「住み慣れた地域」は保てる。

これこそが、地域包括ケアの本来あるべき姿ではないか。

効率の差は数字にも表れている。

財務省の2026年資料によれば、訪問介護1回当たりの平均移動時間は、通常の事業所では26.5分だったのに対し、同じ建物の利用者をまとめて訪問する事業所では10.3分と、61.1%短かった。

ケアマネジャーが利用者一人にかける時間も、住宅型有料老人ホームなどの入居者では、自宅の利用者より22.8%少なかった(財務省「持続可能な社会保障制度の構築〔財政各論Ⅱ〕」2026)。

集住すれば移動が減り、一人の職員が実際に介護できる時間が増える。同じ職員数で提供できるケアを増やすには、スケールメリットは不可欠だ。

集住を出来高払いにすれば、過剰なサービスが増える

集住を進めよと言うと、「サ高住の囲い込み」という批判が予想される。

介護保険には、要介護度ごとに利用できる金額の上限がある。サ高住では、運営会社と同じグループの介護事業者が、その上限近くまで訪問介護などを組み込み、売上を増やしているという批判である。

実際、サービス付き高齢者向け住宅の74.8%、住宅型有料老人ホームの63.3%には介護事業所が併設されている。

また、介護保険を使うなら、運営会社と同じグループのケアマネジャーに介護計画を作ってもらうことを入居条件とする住宅も、サ高住で9.4%、住宅型で11.7%ある(厚生労働省「有料老人ホームの現状と課題・論点について」2025)。

ただし、「囲い込み」という一語で片付けると、本質を見誤る。同じ建物の入居者に同じ事業者が続けて介護を提供すれば、移動や待ち時間が減り、緊急時にも対応しやすい。まさに集住による効率化である。

問題は、本人に必要な介護より、事業者の売上を優先した介護計画になりやすいことだ。利用回数を増やすほど収入が増える出来高払いでは、必要以上にサービスを付ける方が儲かる。

経済学でいう供給者誘発需要である。

問題は集約化ではない。集めて効率化した結果、出来高で過剰に請求できることが問題なのだ。

国は、同じ建物の利用者をまとめて訪問すると、介護報酬を10~15%減らす仕組みを設けてきた(厚生労働省「令和6年度介護報酬改定における改定事項について」2024)。

つまり、事業者が利用者を集め、移動を減らして生産性を上げても、その成果を報酬の引き下げで取り上げるのである。これでは、集約化への投資が報われない。

しかも、利用回数ごとに請求する制度を残したまま単価だけを下げても、回数を増やして売上を確保しようとする誘因は残る。集住の効率化を罰しながら、過剰サービスを生む出来高払いは残す。制度の方向が逆なのである。

必要なのは、減算の強化ではない。包括払いへの転換だ。

包括払いとは、訪問の回数ごとに請求するのではなく、利用者一人につき一定額を事業者へ支払う仕組みである。入居者の多くが同じグループの事業者から介護を受ける住宅では、要介護度などに応じた定額制へ移行すればよい。

定額なら、不要な訪問を増やしても収入は増えない。逆に、移動を減らし、職員を共有して効率化した分は事業者の利益になる。

もちろん、定額制にすると、今度は必要な介護まで減らされる恐れがある。そこで、認知症や医療的な処置の必要性に応じて支払額を増やし、事故やサービスの質を公表させる。重い利用者には追加で支払い、悪い事業者からは移れるようにする。

包括払いは、事業者への白紙委任ではない。出来高払いによる過剰と、包括払いによる過少の、どちらが制御しやすいかという選択である。質の可視化と組み合わせた包括払いの方が、制御しやすいと私は考える。

混合介護を大幅に解禁せよ

では、それでも現在の戸建てに住み続けたい人はどうすればよいか。

そこで必要になるのが、介護保険で保障する標準的なケアと、本人が自費で選ぶ追加サービスを分けることである。すなわち、混合介護の大幅な解禁だ。

介護そのものは保険で支える。しかし、遠く離れた一軒家へ、一日に何度も職員を走らせる費用まで、全員の保険料で無制限に負担することはできない。住む場所によって余分にかかる費用は、原則として本人負担とすべきである。

現行制度でも自費サービスを使うことはできるが、保険サービスと細かく分けなければならず、連続して柔軟に利用しにくい(厚生労働省「介護保険サービスと保険外サービスを組み合わせて提供する場合の取扱いについて」2018)。

この細かな線引きを緩め、料金とサービス内容を公開した上で、保険と自費を柔軟に組み合わせられるようにする。長時間の滞在、なじみの職員の指名、夜間の付き添いなど、保険では一律に提供できない希望は、本人が追加料金を払って実現できるようにすればよい。

混合介護解禁のメリットは四つある。

第一に、本人の希望を叶えやすくなる。公的保険で必要な介護を保障した上で、それ以上の希望は本人の負担で選べる。

第二に、介護事業者が収益を増やせる。もっと儲けたければ、保険サービスの回数を増やすのではなく、利用者から選ばれる自費サービスを提供すればよい。その利益を職員の賃金や採用に回せる。

第三に、市場原理が働く。利用者から指名される職員や質の高い事業者に収入が集まれば、サービスを改善する動機になる。

第四に、公費を抑えられる。公的保険は誰にでも必要な標準的介護へ集中し、それ以上の希望は本人が支払う。

現在でも、資産のある人は家政婦や自費の付き添いを雇い、そうでない家庭では家族が無償で介護している。格差はすでに存在する。それを介護保険の外に隠すのではなく、料金とサービスの見える透明な市場へ移すということだ。

資産のある人は、自費を追加して戸建て生活を続ければよい。

一方、低所得者には、集住型住宅の家賃や転居費を補助し、所得にかかわらず必要な介護を受けられる場所を保障する。その上で、標準を超える居住形態やサービスは、自費の選択肢として開く。二段構えの仕組みである。

受け皿と価格を、同時に

最後に、改革の進め方である。

私の本業である精神科医療では、病床の削減と機能転換が十分に進まない一方で、精神科訪問看護が急速に増えた。地域移行の代わりになるはずのサービスが、既存の入院医療に上乗せされ、給付の純増になっているように見える場面も少なくない。

受け皿を増やすだけでは、古い仕組みが自動的に消えるわけではないのだ。

本来の資本主義、自由主義の筋から言えば、まず将来の報酬を示し、それを見た事業者が投資して、集住型住宅や施設を作るのが正しい。

しかし、現在すでに在宅で暮らしている高齢者に対し、安い集住へ金額で誘導する改革だけを先に始めるのは、さすがに酷である。

だから、報酬制度の改革と受け皿の整備を同時に進める。

将来、集住型の方が採算に合うと分かれば、事業者は住宅や施設に投資する。一方、実際に移れる場所がなければ、高齢者は動けない。ケアキャンパスや集住型住宅を整備し、転居を支援しながら、包括払いと立地コストの自費化を段階的に進める必要がある。

切り捨てるのは、高齢者ではない。どこに住んでいても、同じ費用で、同じ量の介護を届けられるという幻想である。

その代わり、必要なケアを受けられる場所は必ず保障する。その場所の形が、前編で示した大規模ケアキャンパスを核とするコンパクトタウン網である。

そして、その集住を持続可能にする報酬制度が包括払いであり、個々の希望と介護事業者の収益源を確保する仕組みが、混合介護の大幅な解禁である。

これ以外に、地域崩壊と高齢化問題を解決する方法があるだろうか。

私には思いつかない。


編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2025年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。

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