
山梨県の長崎幸太郎知事が、最低賃金審議会で異例ともいえる意見陳述を行った。
長崎知事は、現行の最低賃金では単身世帯で年間約30万円の生活費が不足するという県独自の分析を示した上で、「最低賃金は賃金体系全体を押し上げる『最初の歯車』であり、県民所得の向上を実現するための構造改革の第一歩」であると位置付けた。さらに、県の経済力に見合う最低賃金水準を実現すべきだと主張している。
この発言に、日本共創プラットフォーム(JPiX)代表取締役会長の冨山和彦氏が、「さすがの見識です! 総理も見習って欲しい。」とFacebookで賛意を示した。
私も、この問題提起は極めて重要だと思う。
しかし、この議論の本質は、「最低賃金を上げるかどうか」ではない。最低賃金を通じて、日本の産業構造をどう変えるかなのである。
最低賃金は「最初の歯車」である
最低賃金は福祉政策だと思われがちだ。しかし、長崎知事はそう考えていない。最低賃金は、「県民所得の向上を実現するための構造改革の第一歩」だと明言している。
私は、この認識に強く賛成する。最低賃金は、単に低所得者を守る制度ではない。企業に変化を迫る制度でもある。
最低賃金が大幅に上がれば、企業は高い付加価値を生み出すための、弥縫策でない根本的な改革に取り組まざるを得ない。
最低賃金とは、企業改革のスタートラインなのである。
「最低賃金を上げると倒産が増える」は本当か
最低賃金の引き上げに反対する人は、必ずこう言う。「中小企業が倒産する」。
しかし、山梨県が独自に企業実態を分析した結果、最低賃金の引き上げと企業倒産や雇用縮小との間に相関関係は確認されなかったとしている。さらに、企業収益は改善している一方で、労働分配率は低下しており、「賃上げ余地がある」と結論付けている。
長崎知事はさらに、「異なる実態を主張するのであれば、印象論ではなく、データを明示して議論すべきだ」とまで述べている。 これは非常に重要な指摘である。
最低賃金の議論は、長年、「倒産する」「雇えなくなる」といった印象論に流されてきた。しかし、本来必要なのは、データに基づく冷静な議論である。
若者は地方が嫌なのではない
長崎知事は、20代前半の若者が毎年1000人以上山梨県外へ流出していることを指摘し、その背景には賃金格差があるとしている。
その通りである。若者は地方が嫌なのではない。低賃金が嫌なのである。
地方に、十分な収入を得られ、将来性があり、誇りを持てる仕事があれば、多くの若者は地元に残る。
問題は地方そのものではない。地方に高付加価値企業が少なすぎることなのである。
山梨県は「企業を変える」ことを前提にしている
長崎知事の原稿を読むと興味深いことが分かる。
知事は最低賃金の引き上げを求める一方で、人材育成、DX支援、設備投資支援、価格転嫁支援、補助金申請支援、特例融資などを一体的に進めると述べている。
つまり、「最低賃金だけ上げて終わり」ではない。企業にも変わることを求めているのである。
私は、この姿勢を評価したい。行政は役目を終えた企業を徒に延命させるためではなく、企業が高付加価値化することを支援すべきだからだ。
価格決定権を持つ企業だけが賃上げを続けられる
とはいえ、ここで一つ付け加えたい。DXだけでは十分ではない。設備投資だけでも十分ではない。持続的な賃上げを実現するために必要なのは、価格決定権である。
価格競争に巻き込まれる企業は、営業利益率が低く、賃上げ余力も限られる。
一方、独自技術を持ち、ブランドを築き、世界市場で評価される企業は、高い利益率を維持し、継続的な賃上げができる。
私はこれまで、オーデマ・ピゲやコシナなどを例に、価格決定権を持つ企業こそが高賃金を実現できると論じてきた。


長崎知事の「構造改革」という発想は、この方向性と矛盾しない。むしろ、その第一歩と位置付けられる。
低賃金経済は社会の健全性も損なう
低賃金の問題は、家計だけの問題ではない。将来への希望を失わせる問題でもある。
近年、「闇バイト」と称し、SNSを介して特殊詐欺や強盗の実行役を募集する事件が相次いでいる。もちろん、低賃金だけが特殊詐欺の原因ではない。犯罪は家庭環境や教育、地域社会など様々な要因が重なって起こる。
しかし、正規の仕事で努力しても生活が良くならないと感じる人が増えれば、「短時間で高収入」という違法な誘いが相対的に魅力を持ってしまう社会になる。
これは決して望ましい社会ではない。低賃金経済は、社会のモラルや治安にも長期的な影響を与えかねないのである。
日本が目指すべきは「高賃金でなければ企業が生き残れない経済」
日本では、「企業が耐えられる最低賃金」ばかりが議論される。しかし、本当に問うべきなのは、儲けが少なすぎる問題企業の体力に最低賃金を合わせるのか、日本以外の先進国並みの最低賃金に企業を合わせるのか、ということである。
私は後者であるべきだと思う。最低賃金を日本以外の先進国並みに短期間で一気に引き上げる。企業は付加価値を高める。行政はその改革を支援する。ブラック企業が綺麗に淘汰され、価格決定権を持つ企業が成長する。その結果として、若者が地方に残り、地方経済が豊かになる。
長崎知事が最低賃金を「県民所得向上を実現するための構造改革の第一歩」と位置付けたことには、大きな意味がある。
日本が目指すべきなのは、長年にわたる自民党の中小企業政策の帰結である「低賃金でも容認される、ブラック企業の自称経営者に優しい経済」ではない。「高賃金でなければ企業が生き残れない経済」である。
その転換なくして、「頑張れば報われる社会」は実現しない。
そして、その転換を促す最初の歯車こそが、最低賃金なのである。







コメント