『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』(清談社)からの抜粋。今回は島津による制圧から江戸時代の沖縄である。
豊臣政権と琉球王国
関ヶ原の戦いから10年もたたない1609年に琉球王国は薩摩の島津氏に出兵され、なすところなく制圧され、以降、その支配下に置かれた。
島津氏は応仁の乱のころから沖縄を自分たちの勢力圏とみなしてきた。しかし、薩摩・大隅・日向の3州では一族や地頭たちが群雄割拠だったが、ザビエルがやってきた1549年のころ、島津貴久が戦国大名として権威を確立した。
1578年には耳川の戦いで大友宗麟を撃破し、1584年には島原半島の沖田畷の戦いで竜造寺隆信を敗死させて、九州統一間近にまでなった。
しかし、豊臣秀吉の攻撃を受けて1587年には降伏し、薩摩・大隅と日向南部に押し込められた。
豊臣秀吉が伯耆の亀井茲矩に琉球国をやるといったのだが、取り消させている。なお、それに先立ち、足利義晴も備中の三宅国秀に沖縄遠征の許可を出したこともあるというが、真偽は不明である。
豊臣秀吉によって天下は統一され、周辺諸国と同じような中央集権国家の形が整えられた。しかも、南蛮船もやってきているし、貿易を各大名が勝手にやったり、倭寇のような非合法勢力にまかせておくわけにもいかなくなった。
また、どこまでが領土か、沖縄や蝦夷のような十分に支配が及んでいないところと日本政府との関係はどういうものか、といったことを明確化する必要も出てきた。
そうしたときに、沖縄は日本人が暮らす土地であるのだから、統一権力に従うべきであって、中国の子分みたいなことはダメだという考え方を豊臣政権がとるのは不思議ではない。長崎がバテレンの土地では困るのと同じである。
そして、豊臣秀吉は大陸遠征にあたり、当然のことのように琉球にも軍役を課そうとした。琉球王国はこれを明に密告する一方で、軍役は拒否せずに半分だけ送り、半分は島津氏に肩代わりさせてしのぎ、それを踏み倒した。
ともかく、負担をいったん了承してしまえば、もはや、自分たちは明の冊封国だからとか、独立国だからと断る理屈はなくなった。
また、徳川幕府が漂着した琉球船の乗組員を救出・送還したのにも聘礼の書状を出さなかった。聘礼の書状を出すと明の機嫌を損ねると思ったのである。現実に沖縄は天下統一された日本の軍事的勢力圏になっており、明が救援することなど最初から無理だということを理解しなかったのである。
このとき政権を率いたのは謝名親方という中国系の人物で、南京の国子監という官僚養成校に7年間も留学していた根っからの中国絶対崇拝主義者だった。
正史である「球陽」には、「権臣謝名の言を信じ、遂に聘問の礼を失す」とあり、別記録には「(謝名親方が)子供の時から明の南京へ学問に渡り、年久しくして帰国したので、ヤマトの風を知らなかった」「こうなったのも謝名親方ひとりの失敗だし、佞臣だった」とある。
島津氏による琉球征伐
幕府は、島津氏による琉球征伐を許可した。第3次朝鮮遠征をすべきという世論をかわすために幕府が琉球を標的にしたという面もあったといえる。

薩摩藩初代藩主 島津家久 Wikipediaより
薩摩軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに本島北部に上陸し、あっという間に首里城を陥れ、国王尚寧は鹿児島に連れ去られた。尚寧は3年間もヤマトに抑留され、将軍に接見させられた。
また、15条の掟を承認した。そのなかには、中国への関係も薩摩の監督を受けることや、琉球国内で不当な扱いを受けた者が薩摩へ訴え出ることが可能なことが書かれていた。
島津氏は役人を常駐させたが、同時に、王国は形の上で維持した。徳川家康は、琉球に日中貿易を実現する仲立ちを期待した。薩摩は琉球に明に対して交易を認めるように交渉させ、聞き入れないなら数万人の軍勢を福建省に送って軍事的に攻撃することまでほのめかしたが、だめだった。
しかも、明は薩摩の支配下に入ったことを怒って、それまでの2年ごとの進貢を10年に1度にすると嫌がらせをした。
しかし、そのうちに、中国側もだいたい2年に1度の進貢を復活させ、島津氏としてはそれなりのメリットが確保できた。
島津氏は、琉球に対するときや中国に対しても、国内での官位が低いと不都合だとして幕府や朝廷に高い官位を認めさせたり、沖縄を支配していることをフルに利用していくことになった。
薩摩支配と中国への朝貢
島津氏は奄美群島を直接支配下に置いた。奄美は、古代からヤマトの影響がかなり及んでいたところにもかかわらず、琉球王国が15世紀に併合したものである。奄美と沖縄の間にある与論島と沖永良部島はもともと北山王国に服従していたのを併合したものだが、ついで奄美大島に近い徳之島、さらに、1447年には奄美大島、1466年には喜界島が征服された。
島津氏は奄美を直轄領化したが、建前としては琉球王国の領域であることをやめたわけではなく、大島郡が設置されて大隅国に編入されたのは1879年の琉球処分のときだった。
明治維新まで、琉球国王は明や清に朝貢し皇帝から冊封を受けるが、一方で薩摩藩に支配され、江戸の将軍にも朝貢使節を送るという関係となった。島津氏に支配されている実態を中国側も知らなかったのではない。
知っていたのだが、表向きは知らないことにしていたのである。朝貢貿易の利益のかなりが島津氏のものとなったこともいうまでもない。ただ、江戸時代も中期になると、この進貢貿易は赤字になっていたようである。
冊封使が来たときは、薩摩の役人は隠れたりしていたようだが、これは、本当にだまそうとしたのではなく、冊封使たちに配慮しただけである。
琉球王国を支えた政治家たち
琉球王国では、尚真王(在位:1477~1526年)、羽地朝秀(摂政任期:1666~1673年)、蔡温(1682~1762年)が重要な政治家である。

尚真王 Wikipediaより
尚真王は、首里城を美しく整備し、豪族たちを首里に集め、官僚を地方に派遣するなど行政機構を整備し、伝承を集めて「おもろそうし」を編纂した。また、聞得大君(きこえおおぎみ)という琉球神道における最高神女(ノロ)を設け、祭政国家のかたちをつくった。また、明帝国との交流を盛んにした。
羽地朝秀は、島津氏の支配下に入ったあと、薩摩で学んだ王族である。日琉同祖論に基づいて先に紹介した正史「中山世鑑」をまとめ、上記の聞得大君の権限を制限するなど琉球神道の役割を小さくし、質素倹約につとめた。
蔡温は中国系である。北京に留学し、有能な行政官だった。治水や植林、インフラ整備を進め、農業や工業を振興した。
こうして沖縄経済社会はそれなりに上昇したが、それでも、本土とはかなり大きな差があるままで、琉球王国時代をあまり美化することには賛成できない。
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