『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改訂版)』((清談社)からの抜粋。今回は明治から太平洋戦争までの沖縄である。
琉球処分後の沖縄統治
琉球処分から太平洋戦争が始まるまでの日本政府の沖縄統治は、全体としてはまずまず高い評価をすべきだと私は思っている。
もちろん、批判はいろいろある。過度に旧慣を尊重したので庶民たちの生活は容易に向上しなかったという意見もあるし、逆に沖縄社会の慣習や文化を尊重しなかったという批判もある。
琉球処分はしたものの、旧支配層をなだめるために、政府は旧慣尊重をしばらく方針としたが、2代目の県令として赴任した上杉治憲はこうした守旧策を批判し、沖縄県民本位の統治を提案したので、いまでも県民からたいへん尊敬されている。
沖縄尋常中学で起きたストライキ
沖縄では1894年に、沖縄尋常中学(現在の首里高校)で、新任の校長が、普通語(標準語)すらままならない生徒に外国語まで教えるのは気の毒として、外国語をカリキュラムからはずすという事件があり、馬鹿にするなと怒った生徒が6か月のストまでした。
この時の首謀者が、のちに海軍少将となり、昭和天皇訪欧の際のお召し艦の艦長だった漢那憲和である。退学処分になったのだが、奈良原知事の配慮で海軍士官学校に進んだというのが、明治人のおおらかさである。
明治政府が進めた近代化
全国的にみれば、明治政府の経済社会の近代化政策は、非常に急進的なものだったと思う。しかし、全般的には、やや強引といえるほど大胆に近代化を図った結果として、教育の普及、経済の発展、庶民生活の向上に立派な成果を上げたと思うし、それは沖縄にも当てはまる。
ただ、沖縄の場合には、たとえば、台湾の開発などと比べると将来性が乏しく、戦略的な意味もないという判断がされたようだ。
台湾・南洋群島へ向かった沖縄県民
一方、台湾の統治は、沖縄に中継地としての役割を与え、台湾に帝国大学など上級学校が設立されたことは、沖縄の人にとって大きな恩恵になった。また、気候が似た台湾や南洋群島へ、多くの沖縄県民がチャンスを求めて出稼ぎへ行った。
沖縄の近代化は進められたが、義務教育が始まったのは1901年で、本土より15年遅れだった。国会に代表を送り出せるようになったのは1912年になってからのことだから、第1回総選挙の22年後のことだった。

戦前の沖縄の女性たち 那覇市歴史博物館デジタルミュージアム所蔵
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