
聖教新聞社で開沼博さんと行った対談イベントが、YouTubeで公開されている(動画は末尾に)。同紙をとっている人、つまりおおむね創価学会員の方は、9/21の紙面にも活字版が載っている。
開沼さんには全国で学会員の活動をフィールドワークした著書(2024年)があり、ぼくは今年から日本社会と創価学会の歴史を連載中だ。なので「創価学会を研究する」ことの内実を語りあったが、そこで大事な発言があった。
開沼 『「外部」と見た創価学会の現場』(潮出版社)にも書きましたが、宗教は「差別問題化されない差別」になっています。
例えば「それ宗教みたいだね」という言い方は、「非科学的で変なこと」という言葉と、ほぼ同じ意味合いで使われています。……差別的に感じる言葉でも、外部には「自分の気持ちをそのまま言っただけ」と流され、開き直られてしまう。このことは私も福島への風評被害の問題で同じように経験しました。
差別問題化されている人種やジェンダーなどへの言葉遣いに厳しい人や、多様性が大事だと言っている人でも、宗教は思い切り差別していたりします。それを直視することが、今の社会には必要です。
『聖教新聞』2026.9.21
強調は引用者
ある価値観と、それに基づく実践の作法が共有されている集団は、別の集団の目には “奇妙” に見える。それは本来「お互いさま」なのだが、日本人には相手の集団が “宗教” を名乗っていると、つい軽んじがちな悪い癖がある。
大事なのは「なんか宗教みたいだなぁ」と感じたとき、それをコイツらってヘン! という思考停止につなげずに、むしろ、なぜそんな存在が現にあり、逆に自分には「宗教みたいな部分」はないのか? と問い返すことだろう。

そんなことを改めて、来週9/28(月)のイベントのために、藤山直樹さんの講義録を読みながら思った。藤山さんは精神科医であると同時に、国際的な協会(IPA)が認定する正規の資格を持つ「精神分析」の実践者でもある。
精神分析は、現代思想や文芸評論にも流用されるので、「まぁこんな感じでしょ?」と知ったつもりでいる人が多い。まさにぼくがそうだったのだが、人対人の現場でマジに行われる精神分析は、それとはほぼ別物だ。
むしろ “臨床” としての精神分析は、「非科学的で劣っている」といったニュアンスとは一切無縁な意味で、ひとつの宗教のように感じる。具体的には、以下の諸点が両者に共通だ。
① 「教典」がある。
ご存じのとおり、精神分析の開祖はフロイトである。が、それは(たとえば)日本政治思想史という学問分野を作ったのは丸山眞男だから、丸山が開祖だ、というのとは、意味が違う。

いまも思想史の学者はみな丸山を読むが、それは単に重要な先行研究だから読むだけで、自らの学説を主張する際に「これは丸山先生の、この発言の私なりの解釈です」という形を採らねばならぬ、といった義務は別にない。
精神分析家にとってのフロイトは、それと違う。臨床を通じて「フロイトがこう書いていたのは、この意味だとわかりました」というスタイルで、自らの知見を発信する。修行を積んで「仏典の意味がわかる」のと同じである。
パーキンソン病というのは1820年代にパーキンソンという人が見つけたものですが、パーキンソンがパーキンソン病を見つけた論文など今は誰も読んでいないわけです。……医者は全く読む必要がないんです。
だけど精神分析はフロイトを読まなきゃできません。フロイトを読まない人は精神分析はできません。ここが違います。
(中 略)
「こんなにすごいことを言うけど、これはあくまでフロイトが言っていることの一部だから」というようなことを〔メラニー・〕クラインだって書いています。全然違うじゃないかというようなことも、そうやって書いています。そういったことを言っているときは、フロイトを超えているんじゃないかって本人が暗黙に思っているところですよね。
113・117頁
段落と数値表記を改定
有名なフランスのラカンにしても、彼は国際的な協会の規則を破りまくり正式な分析家ではないのだが、「俺の解釈こそが “真のフロイト” だ!」と主張することで、一派を築いた。カトリックに対するプロテスタントみたいなものなのだ。
② 「治療」は目的ではない。
カウンセリングという用語が普及した現在では、精神分析もその「高級版」くらいに思われがちである。カウンセラーがじっくり悩みを聞き、心の回復に向けて共感したり、励ましたりしてくれる。そんなケアのイメージだ。
ところがなんと、そうではないのである。精神分析の原語はPsychoanalysisだが、分析家は利用者が語る話をアナライズするだけで、他のことはしない。回復のためには「こう言ってあげよう」、みたいな配慮もしない。
普通の人間関係で、苦しい人がいたら「大丈夫よ」とか言ったりするでしょう? 「じゃあ、こうしたら」とか、「私が一緒にそばにいてあげる」とか言うでしょう? こういうアクションは精神分析では全部禁じられているわけです。
(中 略)
「よくわかるわ」と言いたくなるのは事実です。そういうとき分析家はどうするかというと、「あなたは、私に、よくわかるよ、というふうに言ってほしい気持ちを強く持っているけれども、それが私に伝わっていないのではと心配なんでしょうね」と、たとえば、言うんです。
同書、89頁
(分析家でなく)友人に悩みを打ち明けて、その友人が「君は、私に同情してほしいんだね」としか言わなかったら、ふつうは殴るか絶縁するだろう。だが、精神分析家は規則によりそうする。
要するに、精神分析とは一定の約束事に沿って、”不自然” なコミュニケーションをあえて継続的にとってみる営みなのである。それはたとえば、定期的に座禅を組みにゆくとか、公案をめぐって禅問答を交わす体験にも近い。
なので、実は精神分析家は、分析を受けると「元気になりますよ」とか、「病気が治りますよ」とかは、言わない。というか、メンタルの病気を「治してくれ!」として駆け込む場所では、そもそもないらしい。
決して症状をよくするために彼ら〔利用者〕は来ていないわけですよ。何のために来ているかというと、普通の言葉でいえば、かなり実存的な悩みを解決するためですよね。そこでやっぱり宗教に求めるのか、セラピーに求めるのかみたいな、二者択一みたいなところがありますよね。
(中 略)
もともと精神分析で症状が取れるのは、フロイトもはっきり、それは副産物だと言ったわけです。……だから、精神分析というのは症状をよくすることが目標じゃないわけですね。
18-9頁
ぼくらが特定の宗教に対して「怪しいな?」と思うのは、あまりに一対一でリターンの明白さを謳っているときだろう。いくらの献金でこれこれが実現します、みたいに言われるほど、この宗教はニセモノだな、と感じる。
どうやら精神分析は、そうではないホンモノの宗教らしい。時間を設けて定期的に、日常生活ではふだんしない体験を習慣にしませんか、と誘う。あくまでその “結果として”、信仰とともに人生が充実することがあるのだ。
③ 「供養」によって存続する。
では入信すると、具体的にどうなるかというと、毎平日(週5日)に各50分ほど、分析家のオフィスで「分析」してもらうのが基本らしい。医療行為だと思えば「重っ!」だが、信仰の実践としてならむしろ納得のペースだ。
なので、それだけのお金を出せるクライエント(顧客)がいないと、精神分析は存続できない。藤山さんの本が説くように、フロイトの時代は字義通りのブルジョアジーがそれを支えたが、そうした条件は国により異なる。
日本人がお金を臨床的なサービスに払いたがらないのは、これはまた別問題ですね。アメリカ人なんかよりははるかに金を持っている人でも払いたくないんですよ、日本人は。
(中 略)
自分はこいつを生活させるためにはいくらぐらい払う必要がある、ってわかりそうなものだけど、そういうことは全く考えもしない。つまり、臨床家というものを自分たちが養っている、つまり雇用主であるという意識が全くなくなっているね、今の消費者はね。
同書(下巻)、241頁
これは本来の仏教用語でいう「供養」である。供養と聞くと、ぼくらはつい葬式や法事の呼びかえだと思いがちだが、そうではない。
上座部仏教の行者が典型だが、(自分たちの代わりに)解脱をめざして修行する僧侶たちを、みんなでお供えをしてあげることで養うのである。そうしたエコシステムが回ることで、宗教の実践がサステナブルになってゆく。

ここで問うべきは、1900年前後のウィーンで、なぜそうした “新たな宗教” が生まれ、世界で受け継がれているかという謎だろう。
それは近代の爛熟ということ――それぞれの個人が自らの運命の主人公で、自己の才覚で自身の人生をコントロールしうるといった(いま風に言えば自己啓発的な)神話が、ホントかな? と疑われ始めた季節と、関係がある。
今日も欧米で各界のトップを行く人が、BuddhismやZenに目覚める例は多い。彼らはしばしば、精神分析のよき顧客でもあった。「宗教っぽい」という感じ方を侮蔑的にではなく、そうした広がりの中で捉えることが大切だ。

こうしてぐるっとメンタルの話題を経由して、創価学会(知らない世代も増えたが、戦前に生まれた日蓮仏教の団体である)に話が戻ってくるわけだが、開沼さんとの動画では、最後の質疑の時間にぜひ注目してほしい。
具体的には1:04:16からだが、2024年元日の能登半島地震で被災された方の質問に、開沼さんに続いてぼくが、いわば「ひとり被災」のようなメンタルの障害の当事者として、答えている。
近代的な医療も、その外にある精神分析も、そして宗教も、困難を誰かと分かちあい、乗り越える技法としては等価だ。来月刊の次著で、専門家への依存という「病気化されない病気」を主題にしたことが、問いに答えるベースになった。

以下が、お待ちかねの動画。そして下に附すのが、応答の際に踏まえた拙著の一節である。9/28のイベントでも、きっと重なる議論になると思うし、よかったらぜひ玩味して、10/21の発売を楽しみにしてくれたら嬉しい。
1990年代から注目されてきた精神医療の手法に、ナラティヴ・セラピーがある。人生という「物語」(ナラティヴ)の一部として、本人が病気やトラウマを位置づけることができたときにだけ、人は回復できる。「あの体験がつらかったから、病気になったんだな」「でも病気をしたからこそ、いま得ているものもあるな」といった具合だ。
だから治療者は、薬やトレーニングを一方的に患者に押しつけるだけでは、いけない。彼らの「語り」に耳を傾け、いわばその人の自伝の共著者になるような気持ちで、接してゆく ――そうした考え方だ。
そのマニュアルは、当事者に自らの歩みを語ってもらう理由を「可能な限り早い段階から、自分の人生をコントロールできている感覚を〔、〕その人が取り戻すことを支援する」ためだと解説する。なぜ自分はこうなのかを本人が語れることは、なすすべなく他人に支配されているわけじゃないぞという、健康的な自信を持つための土台なのだ。
『なぜ「まちがえた」と言えないのか』48-9頁
参考記事:


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年9月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください










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