1989年にベルリンの壁が崩壊する直前、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり?」という論文で、社会主義の敗北を予想した。西欧型リベラリズムにはもはや有力な対抗思想が存在しないと宣言した彼の『歴史の終わり』は、世界的ベストセラーとなった。
しかし2011年の『政治の起源』で、彼はその宣言を撤回した。世界は中国やイスラムの台頭でますます複雑になり、本書はリベラリズムの危機を論じている。問題はリベラルが負けたことではなかく、勝ちすぎたことだった。
「歴史の終わり」で勝ちすぎたリベラリズム
冷戦終結後の世界は、一時期まではフクヤマの予言通りに見えた。旧社会主義国は市場経済を導入し、民主化が進んだ。世界貿易は拡大し、グローバリゼーションが進んだが、国家を超える新自由主義の時代は、2008年の世界金融危機で終わった。
グローバル資本主義は経済を不安定化し、格差を拡大することがわかった。2010年代は、リベラリズムが世界的に攻撃された時期である。その元祖を、著者はフランクフルト学派の批判理論に求める。
1960年代にマルクーゼは、消費文明は支配階級が人々を支配するために作り出した幻想であり、資本主義を倒さない限り、その幻想は消えないと論じた。これは学園紛争の理論的支柱になり、その終焉とともに忘れられた。
しかし大陸ではポストモダンとして継承され、すべての言葉は政治的だというポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズなど、いろいろなテキストの言葉尻をあげつらって「脱構築」するポストモダン批評が始まった。
それ自体はアカデミックなお遊びだったが、それが大衆化したのがジェンダーやポリコレである。皮肉なことにリベラリズム批判が生み出したポストモダンがリベラルの武器になり、人種差別やセクハラなどを糾弾する「正義の言説」がアメリカを支配し、過剰なリベラリズムを嫌悪する人が増えた。
「リベラルへの反乱」がトランプを生んだ
その反動として登場したのが、トランプのポピュリズムだった。左派が少数者のアイデンティティを政治化するのに対して、右派も白人、キリスト教徒、地方住民、伝統的国民といったアイデンティティを政治化した。
2016年のトランプ当選はその象徴だったが、彼が民主党のリベラルに代わる政治理念をもっているわけではない。むしろ古典的自由主義を継承する共和党の理念とはほど遠い保護貿易や財政バラマキを続けている。
『歴史の終わり』はリベラル民主主義が永遠に安定すると予言したものではなく、西欧型リベラリズムに代わる普遍的な政治思想が見当たらなくなったという議論だった。
現在でも中国やロシアに権威主義は存在するが、それは世界中に適用できる普遍的な政治理念ではない。その意味では今でもリベラリズムに代わる理念はない、とフクヤマは結論している。
リベラリズムに代わる政治理念はあるのか
日本で野党が「リベラル」と自称するようになったのは、冷戦終了で「社会主義」という言葉に負のイメージがつくようになってからだ。それを否定する高市首相の右翼的な政治姿勢や財政バラマキはトランプ的ポピュリズムの模倣で、政治理念は何もない。
だが日本型リベラルは、中道改革にみられるように壊滅した。日本にはもうリベラルと呼ぶべき政治勢力がないのだ。それでもリベラリズムしか普遍的な理念がないとすれば、ゼロからやり直すしかない。
今週の金曜から始まるアゴラセミナー「リベラルはなぜ敗北したのか」では、戦後の歴史をたどって日本のリベラルがなぜここまでだめになったのかを考え、リベラルは再生できるのか、それに代わる政治理念はあるのかをみなさんと考えたい。









コメント
今日のいわゆる「リベラル」が本来の意味のリベラルであるかとなりますと、はなはだ疑問であるように私には思われます。例えば以下の池田氏の文章ですが、「正義の言説」を声高に叫ぶような行為は「権威主義」そのものであり、リベラルの対極に位置付けられてしかるべき思想です。
> 皮肉なことにリベラリズム批判が生み出したポストモダンがリベラルの武器になり、人種差別やセクハラなどを糾弾する「正義の言説」がアメリカを支配し、過剰なリベラリズムを嫌悪する人が増えた。
この問題の根底には、西欧社会に根強い理性への信頼が横たわっております。かつての共産主義を支配した理想を求める論理、いわゆる「イデオロギー」は、今日のリベラルをも同じように支配している。だから、かつては左翼の論客であった人達が、今日ではリベラルを自称することにも抵抗は少ない。この間の壁は、極めて低いのですね。
理性に対する懐疑は、1960年代ごろより徐々に高まり、20世紀の終わりごろには、多くの人たちがこれを意識していたように私には思われます。例えば経営学の世界では、数値で表現される経営指標の重視から、クオリティ、顧客満足度、企業のバリューといった、感覚的指標が重視されるようになる。論理を超越した東洋思想への関心の高まりも、理性中心主義への懐疑がその根底にはあったでしょう。
池田氏のエントリーでは、たとえば上の引用部で、リベラルに新しい武器を与えた思想としてポストモダンをとらえておられますが、ポストモダンの元々の出発点は西洋思想の行き詰まりがありました。これは、オペックによる原油価格決定権の奪取や、ベトナム戦争における米国の事実上の敗北、あるいは電気製品や自動車産業における日本の躍進などにより、西洋の優位性に対する自信が失われたことがその出発点にあったのですね。
ポストモダンには様々な進歩もあったのですが、多様な文化が並立する世界を描き出したにとどまっているように私には思われました。小泉純一郎氏の2004年の言葉「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」が、まさにそういう考え方の表れです。まあこれは、実体のない勤務による年金加入という問題を躱す言い訳、ではあるのですが。
理性の行き詰まりの先の世界は、西洋の思想家も、以前から多々描き出しておりました。例えばカントの悟性(英:under-standing、独:Verstand、フェアシュタント、最近の和訳では「知性」とも)は、理性が扱う以前の言語化されていない知識を扱う能力で、人が感覚器官で得た情報を概念化する機能は、悟性によって行われております。
最近では、人間が意識して行う思考は、脳の機能のごく一部に過ぎず、脳はより膨大な情報処理を無意識のうちに行っていることが知られております。そして、創造性に優れた人は、この概念化以前の情報から、思考の飛躍を得ているといわれております。これは例えばナンシー・アンドリアセン「天才の脳科学」などが紹介しているのですが、同様の考え方は、石井淳蔵著「ビジネス・インサイト―創造の知とは何か」でも、「言語化できないもの、論理として意識される以前の、暗黙の認識が重要である」と主張するのですね。
実は、理性と、理性以前の考え方の対立は、ニーチェも「悲劇の誕生」の中で扱っております。彼は、理性主導の「ソクラテス的なるもの」と理性以前の陶酔的な「ディオニュソス的なるもの」を対比し、ディオニュソス的なるものを高く評価しているのですね。このような考え方は、マックス・ヴェーバーの「英雄倫理」やヨーゼフ・シュンペータ―の「英雄ビジョン」とも共通し、資本主義を前に進める原動力と考えられているのですね。
結局のところ、歴史が終わってしまった共産主義や社会主義にリベラルを対比することは、あまり適当ではないというのが私の結論です。対比させるとすれば、共産主義や高圧的な社会正義の追求に共通する、理性重視、イデオロギー重視の「権威主義」に、理性以前の世界、人間本来の持つ自由な精神を重視する「本来のリベラル」を対置するのが妥当ではないか、そう、私は考えております。