「なおさん! なおさん!!」
会社の携帯から、不意に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あれ、○島?」
iPhoneの向こうに会社の後輩の○島(仮名:そりゃそうか)がいた。
どうやら彼女からのSMSを見たあと、指が滑ってFaceTimeのボタンを押してしまったらしい。
「あれ? 会社じゃない? どこにいるんですか、遊んでるなー」
「今日は有給取ってんだわ。ほら、ここ」
カメラを海へ向ける。
「赤穂御崎」
赤穂御崎は兵庫県赤穂市の南、瀬戸内海に突き出た岬だ。小高い丘の上から穏やかな海を見渡せる景勝地で、恋人の聖地としても知られている。

伊和都比売神社は航海の安全を守る神社。
日露戦争開戦の際、東郷平八郎がここに祈願に訪れた。
「あこー……? どこですか? でも海きれいですね。神社あるならおみやげにお守り買ってきてください。おみやげに」
愛知県の彼女は赤穂を知らないらしい。吉良の地元である愛知県民だからといって赤穂浪士の話を嫌がるわけでもないのだろうが。
それにしても、「おみやげに」の部分だけ妙に力が入る。
○島とは入社してすぐからの付き合いだ。気づけばもう知り合ってもう20年近くになる。当時は二人とも平社員だったが、いつの間にか私は別の支店の部長になり、彼女もベテラン社員になった。
立場は変わったけれど、○島だけは出会った頃と変わらない距離感で絡んでくる。
そして、そんな関係が案外心地よかった。

御崎から畳岩を眺める。干潮のときは御崎との間に砂洲が生まれて岩まで歩いて行けるのだけれど、生憎このときは満潮でした。
「そういや最近会ってないけど、仕事はうまくやってんの?」
「全然だめなんですよー。上司とケンカしちゃって口きいてないんですー」
「だめだろ。仕事なんだし、ちゃんと話はしないと」
○島は筋金入りの人見知りだ。その上司は数少ない心を許せる相手であり、味方だったはず。そんな状態で仕事がうまく回るわけがない。

大石名残の松
大石内蔵助が赤穂を去る際に何度も見返していたと言われる松。
近年マツクイムシにやられているらしく、薬をもらいつつ蘇生を図っている。
FaceTimeの画面の向こうで、○島が情けない顔をしていた。
「でも向こうも悪いんですよー。頭ごなしに言ってきて」
「そういうこともあるだろ。向こうもたぶん、お前が悪いと思ってるぞ」
「えー。味方してくれると思ってたのに」
不満そうに頬を膨らませる。
その表情は入社した頃と何も変わらない。

赤穂御崎の遊歩道。
9月も彼岸過ぎれば海風に和毛が揺れて心地いい。
「で、どうしたんだよ」
「だから聞いてくださいよー」
私は遊歩道を歩きながら、○島の愚痴を聞いた。
仕事のこと。
上司のこと。
思うように仕事が進まないこと。
一つひとつは大したことではない。
けれど、大したことのない悩みほど、積み重なると人の心をじわじわと削っていく。
「なあ」
○島の愚痴を遮り、わたしはスマホを海へ向けた。。

赤穂御崎から見える家島諸島。
姫路から30分ほどで渡れる漁業と採石業の島。
「おー、きれい」
「こういうの見てるとさ、自分が抱えてる問題も案外小さい気がしてこないか」
「ならないですね」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
「お前な」
「だって海は慰めてくれないですもん」
確かにそうだった。
海を眺めても、上司とケンカした事実は消えない。
これからも仕事は容赦なく待っている。
現実は意外としぶとい。
それでも。
「まあ、とりあえずちゃんと会話はしろ。仕事なんだから」
「うー」
「味方だった相手と口きかなくなるのが一番面倒だぞ」
しばらく沈黙があった。
波の音だけが聞こえる。
やがて○島が小さく言った。
「……わかりました」
その声は少しだけ素直だった。
「でも、うれしかったですよ、こうして電話してくれて」
少し声をつまらせながら言う。本当は、私がうっかりFaceTimeのボタンを押しただけなのだけれど。
それは黙っておこうと思った。

神社から海へと下る遊歩道、きらきら坂。
古民家をリノベしたレストランなど、おしゃれな店が集う場所。
石畳に潜むハートの敷石を見つけられたら、ラッキー。

古民家レストラン「海と坂と」。

ラッキー!!
わたしはきらきら坂を下った。
白い壁と青い海。
午後の陽射しを受けた坂道は、その名の通りきらきらと輝いて見えた。途中、古民家を改装したレストラン「海と坂と」の前で立ち止まる。
「お、良さそうな店」
「ほんとだー。ごちそうしてください」
「なんでだよ」
そんなやり取りをしたところで、不意に画面が暗くなった。
バッテリー切れだった。そういや昨日ホテルで充電してなかったっけ。
静かになったスマートフォンを見つめる。
急に辺りは静かになり、赤穂御崎の波音だけが耳に入ってきた。
きっと今頃電話の向こう○島は、急に電話が切れたことに「なんでー!」と騒いでいるだろう。

「海と坂と」のランチプレート。
地元産の鶏肉とハーブの香草焼き香りが食欲を誘う。
一人でチキンを頬張りながら、ふと思った。
そういえば。
知り合って二十年近くになるのに、二人だけで食事をしたことがない。
飲み会はあった。
歓迎会も送別会もあった。
仕事の相談も何度も受けた。
泣きながら電話してきたことだって、一度や二度ではない。
それなのに、二人でゆっくり食事をした記憶はなかった。
今度会う機会があったら誘ってみるか。
飯でも食いながら、今日の続きの愚痴を聞いてやろう。
どうせまた、しょうもない話を延々と聞かされるのだろうけれど。
そのくらいの役には立てる気がした。
帰り際、○島に頼まれたお守りを買おうと伊和都比売神社へ戻った。
ところが社務所は昼休み中で、窓が閉まっていた。
なんとも間の悪い話だった。
仕方なく土産物屋「AMAMI TERRACE」をのぞく。
そこで目に留まったのは、赤穂名産の塩だった。

※画像はお借りしました。
私は小さな袋を手に取る。
お守りの代わりにはならないだろう。
けれど、まあいい。
仕事がうまくいっていないのなら、「清めの塩」くらいにはなるかもしれない。
お守りは買えなかったけれど、あいつにはこっちのほうが似合う気がした。
「上司と仲直りしたら使え」
そんなことでも言いながら渡してやろう。
磯の香りを含んだ風が吹く。
瀬戸内の海は相変わらず穏やかで、午後の光を受けながら静かに輝いていた。
※この物語はノンフィクションです。赤穂御崎での景色も、FaceTime越しの会話も、お守りの代わりに買った塩も、すべて実際にあった出来事です。
編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年10月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。







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