
嘘つきはオープンレターズの始まりだが、懲りないふるまいで恥をかく、学者の連鎖が止まらない。もともとレター公開の翌年(2022年)に「私は署名してません」と言い出した識者すら、かねて疑念が寄せられており、

ましてレターを全削除し逃亡してから「もう4年も経ったし、署名してないって言い張れば通るんじゃね?」という態度で、アナタ過去をごまかしてませんか? と疑われる事例が先月も生じたことは、すでに紹介している。

それでも今月、同じことを繰り返す人がいる。
新たなスターは、英文学者の小川公代氏(上智大学教授)。レターの署名簿に名前が残るこの人が、SNSの “レスバ” で、自分はオープンレターと「無関係」だと主張したのが、2026年の10月12日。

2026.10.12
(赤線は引用者)
ところがおなじみの展開のとおり、「ではこのポストはなんですか?」とする形で、まさにオープンレターが署名を募集していた2021年4月の投稿が掘り起こされ、見る人を呆れさせている。

2021.4.4はレターの公開当日。
その舞台裏の検証はこちらから
オープンレターの署名者が、恥ずかしい自分の過去が指摘されるや、Webから削除させようとする「歴史否定主義」については、先例が豊富だ。ぼく自身も、被害を蒙りかけたことがある。

この問題の第一人者として付言すると、Twitterでの投稿者たちがこぞって自らの発言を削除させている、レターが出る前月の以下のまとめ記事がある。これも復元すると、面白い人の名前が浮かび上がるとだけ言っておく。

今回の事例で注目すべきは、この小川氏がキャリア・ロンダリングならぬ “キャンセル・ロンダリング” の当事者なことだ。つまり単に過去を抹消するだけでなく、自分を「正反対のものに見せよう」と奮闘中なのである。
オープンレターの署名者で、かつ本人もそれを否定していない朱喜哲氏(哲学者)が、いまやキャンセルカルチャーとは180度逆の「対話」や「棲み分け」をメディアでPRしている件については、この初夏に指摘した。

で、小川公代氏もまた “キャラ変” の最中らしく、なんと「急いで決めつけて他人を非難するな」と主張する連載を文芸誌の『群像』で続け、朱氏ともこんな対談を行う予定でいるらしい(苦笑)。
そもそも、小川氏とオープンレターの関係に注目が集まるきっかけは、彼女の連載の最終回と同じ『群像』の11月号に、仏文学者の蓮實重彦氏による小川氏の旧著への批判が載ったことだ。
そこで蓮實氏に「恥を知れ、と思わず声を荒だてずにはいられません」(199頁)と書かれた小川氏が、Xで自分の味方を集める姿が失笑を買い、「じゃあオープンレターはどうなんだ?」と問われる事態になった。
なぜか。「恥を知れ」はだいぶ前から、オープンレター呼びかけ人の発言によって記憶される、Xでの流行語になっているからだ。よりにもよって同じ場所で居直るとは、火事で燃える室内で灯油をかぶるようなものだ。

発言当時の背景はこちらを
これだけなら、SNS下手な学者によくある “自爆テロ” だが、今回はそれで済まない問題がある。
そもそも蓮實氏が、やはり仏文学者の工藤庸子氏との対話の中で行った小川氏への言及は、「文学を専門とする識者が、ネットの空気に媚を売る姿勢」を批判するものだ。この点がXでは見落とされ、十分に伝わっていない。
対話ではまず工藤氏が、ヴァージニア・ウルフの原典をきちんと読まずに、できあいの図式に当てはめてしまう「ウェブ上におびただしく流通する「ケア論」」(194頁)への懸念を述べる。蓮實氏がそれに応えて、問題はネットに限らず、

事態はさらなる深刻さを増しております。ウェブ上に氾濫しているのみならず、『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)の著者である小川公代にいたっては、……はたして「病気になるということ」と題されたウルフのエッセイを、テクストとして読んだことがあるのでしょうか。
間髪を入れず、このお方さまは読んではいないと断定せざるをえません。彼女が依拠するhorizontal / verticalという愚かな対立概念は、おそらく、文学も読めず映画を見る術も心得ていないあの愚かなキャロル・ギリガンの書物から来ていると想定されるからですが、彼女はたかが心理学者でしかないのですから、それもまあ許されましょう。
ところが、その著作の著者紹介に「専門は、ロマン主義文学、および医学史」と書かれているのですから、小川公代の場合は、とうてい許されるはずもありません。
199頁(強調とリンクを追加、
改行し数値表記のみ変更)
と、文学の “専門家” を名乗る者までもが、心理学者がテクストの外部から持ち込んだ対概念に当てはめることで、「ケア論」の流行に便乗する例を指摘する。そうした職業倫理の違反に対しての、「恥を知れ」なわけである。
この場合、小川氏がほんとうに専門家なら、すべきことはなんだろう。
「いや、私はここまでウルフをしっかり読んで書いてますよ」という腕前を、たとえば『群像』の次号に寄稿して見せて、蓮實氏の評価こそ不当だと示すのがプロだ。だって本人も連載するくらい、伝手はあるのだから。
もう一度リンクを貼っておくが、小川氏はXでそんな論拠は一切出さない。むしろ受けた批判を「吊し上げ」だ、「暴力」だと呼び換えて、被害者ムーブでお仲間を呼び集める。他の分野でも見た “センモンカしぐさ” である。

それで実際、同業者のカルテルのように問題の所在を隠蔽しあう、他のセンモンカが “釣れる” のが令和のSNSだ。いわばファクトもコンテクストも無視して、お仲間どうしで「ケア」しあうわけだが、今回も早速湧いてきた。

2026.10.11
元の投稿はこちら
この人とは同じゼミの出身なので、元歴史学者としてよく知っているのだが、「恥を知れ」という語を①蓮實氏がどの文脈で用い、②Xでは誰がこれまで(まともな)批判者に浴びせてきたか、史料批判はしたのだろうか。
このnoteのようにちゃんとやれば、こんなコメントが出てくるはずはない。つまりこの人も米国政治の “センモンカ” で、小川氏からどう「多くを学んできた」かは、たとえば次のオープンレター署名者による言及からわかる。
『ヒルビリー・エレジー』はトランプを支えるヴァンス副大統領の自伝だが、それをリベラル派の集まりで腐してウケをとるのが「文学を通じて政治社会の現実を照ら」すことだと、このお方さまは誇示しているのである。
そんな面々がこの間、ケアせずに、踏みにじってきたものはなんだろう。
正しい意味での、専門家の役割でありモラルだ。そして(たとえば)文芸誌上での論争に政治学者が口を挟むなら、最低限、”文学” を重んずるからこそ「恥を知れ」と発言した相手に対する、専門を異にするなりの敬意だ。
ところがセンモンカは “自分の専門では” 無価値と見るや、平気で他人の領分や誇りを「不要不急」のように扱い、SNSでキャンセルさえ仕掛ける。それが2020年から、ずっと続いてきたことだ。

いよいよ21日発売の拙著は、まさにこうしたセンモンカが毀損してきた①学問への信頼を取り戻し、なにより②彼らに傷つけられてきた人たちをケアするために、書かれている。
そのためにこそ、コロナ禍以降に目にした「専門家」の数々につき、実名はもちろん、どこが非難に値するかを実証しながら書いている。さすがに小川公代氏は出てこないが、三牧聖子氏は150頁から3ページほど出てくる。
いま最も必要なのは、モラルなきセンモンカたちへの “叩き” によるケアだ。なので本記事に至る「…の場合」シリーズも、この際当店のスペシャリテとして、まとめ読みできるようにしてみた。

上記書の刊行後も、そうした “専門禍” を癒すためのケアの作業は、旬の食材(笑)を仕入れつつ続けてゆく。今後もnoteというビストロでは無料でふるまいますので、お代は著書を買う形で、末永くご愛顧くだされば幸甚です。
参考記事:


(ヘッダー左がポリタスTVでの小川氏。右端の共演者が三牧聖子氏)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年10月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください








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