
いよいよ本日10/21、拙著『なぜ「まちがえた」と言えないのか』が刊行になる。長年このnoteでも告知してきたとおり、2020年のコロナ禍以降の失敗の本質を振り返る、ぼくなりの令和史だ。

コロナの次に来た、22年からのウクライナ戦争。同年の元首相暗殺をきっかけにした、闇の宗教団体へのバッシング。平成末からふり撒かれてきた、AIが人間を追い越す論。暗い世相をさらに煽る、各種の陰謀論や終末論……
そこに「私に従えば不安は収まる」と称して現われ、あれこれの断言を繰り返し、しかしまちがいがわかっても訂正しない。そんな仕方で、国民が「自分で考える」機会を奪い続けた専門家のバブルとは、なんだったのか?

とくに第4章だけど(笑)、ずばりぼくならではの構成は、次のとおり。箸休めのように挟まる2つの補論も、ピリリとスパイスを効かせて、この間の世の中のおかしさが際立つように、コースの全体を組み立てたつもりだ。

敗戦から81年後のまえがき
第1章 なぜ、信じたら疑えないのか―「専門家依存症」という病
第2章 暴走する自然科学―新型コロナウイルス禍の真実
補論 「成田悠輔」とはなにものだったのか
第3章 機能しない社会科学―ウクライナ戦争の敗北
補論 専門家に「旧統一教会」を嗤う資格はあるのか
第4章 自壊した人文学―平成・令和の「歴史学ブーム」の末路
第5章 「答えのない時代」はいつ始まり、これからどう生きるのか
次の戦争に備えるあとがき
結論にあたる第5章については、すでにその一部を公開してきた。「まえがき」も注を外した形だが、以下で読んでいただける(実際の書籍では全篇にわたって、しっかりソースを注で示し、反証可能性を担保している)。
本日の発売に際し、書物のメッセージを締めくくるデセールたる「あとがき」を公開する。この数年間を思い出しながら、味わってみてください。
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次の戦争に備えるあとがき
危機のなかで「気づき方」をわかちあう
この本は、できることなら書きたくなかった。
そもそもコロナ禍もウクライナ戦争も、起きなければいちばんよかったことは言うまでもない。また、そこでの専門家たちの「活躍」ぶりが妥当であれば、否、誤りがあったにせよ本人が適切な反省を表明していれば、やはり本書は書かれる必要がない。
いや、当事者が自ら撤回しにくいのなら、異なる著者による(穏当な)批判を掲載するのは、メディアの仕事であり義務でもあろう。少なくとも異論に触れる機会が保障された上ではじめて、どの立場を選ぶかは「人それぞれの価値観であり責任」と呼びえるだろう。
しかしそのいずれも、この国では十分に実現してこなかった。なによりぼくが、その生きた証人である。

本書の叙述では、どのようにぼくが専門家の――ないし彼らを絶対視するメディアや社会のおかしさに気づき、リアルタイムで異を唱えてきたか、その「きっかけ」や「コツ」が伝わるように、臨場感を持って綴ることを心がけた。ひとつには「後出しじゃんけんだ」といった誹謗を防ぐためだが、それだけじゃない。
次の危機では同じ失敗を繰り返さないよう、そうしたノウハウを読者とわかちあいたいからだ。もしその機会がこれまで、他の形で提供されていれば、無理に本書をまとめることもなかった。
インフルエンサー社会のいま、ただの一度でも影響力のある媒体がぼくを取材し、しかるべき人が「読む価値のある記事です」と拡散してくれるなら、書物を著す以上に広く教訓が伝わることがありうる。それ以上を求めるつもりは、ぼくにはもともとなかった。
だがそれすら行われず、だからこうした形で、すべてを1冊にまとめなければならなかったのである。

打診を黙殺した「学者というカルテル」
ぼくとしても、手をこまねいて見ていたわけじゃない。
専門家も「誤りうる」ということ。にもかかわらず無謬神話のように彼らに依存する、社会の思考停止は危ういということ。それこそをコロナ、ウクライナの経験として語り継ぐべきだと、こちらから多くのメディアに打診してきた(ふだん、ぼくは「頼まれたら受ける」のが仕事の基本で、そうした持ち込みはめったにしない)。
だがずっと、応じてくれる例は乏しかった。数少ない貴重な例外も、元は異なるテーマの企画の中で、なんとか工夫して専門家依存への批判を盛り込む形がほとんどだった。

公平に言って、いまメディアでぼくより「活躍」している識者はごまんといる。そうした知人たちに、その人のコロナやウクライナでの姿勢を踏まえた上で、どうか力を貸してほしいと頼んだこともある。
しかし返ってきたのは、いずれも無視であり黙殺だった。大学院生のころからの知己だったり、一緒に共著を作ったことのある研究者でもそうなのだから、遠くでぼくの試みを冷笑するだけの人もいっぱいいるだろう。
そんな体験を踏まえての憶測だが、学者(なんらかの専門家)にとって、そのくらい自らの無謬神話は「おいしい」のかもしれない。なにせ視聴者にそれを疑わせないかぎり、いくらでもメディアで恣意放埓を尽くすことができ、(一時の)称賛だけを得て責任はとらなくていいのだ。
あるいは、そんな特権をゆるがす営みに手を貸すなら、カルテル破りのように同業者の怒りを買い、裏切者として排斥される空気があるのかもしれない。それは「学問の自由」がすでに死んでいることの証明だが、その世界を離れたら生きられない人には、ぶざまでも最期までしがみつかねばならない筏なのだろう。

無謬神話を操る「依存症ビジネス」
もちろんメディアごとに編集の方針があり、人それぞれの事情もある。だが単に断るだけでなく、時流に抗しようとする姿勢そのものを侮辱した者は、責任を問われてしかるべきだ。
ぼくひとりの恨みで言うのではない。そうした裏方たちこそ、批判を口止めして封じる無謬神話のオーナーだからだ。ある意味では専門家もまた、彼らにとっては便利な商売道具として、おだてて躍らせては使い捨てる人形(パペット)にすぎない。
本来はこの場で一例をご紹介する予定だったが、編集上の判断で顕名での批判は控えることにした。だが本書を結ぶにふさわしい教訓として、次のことは言っておかねばなるまい。

表には「学識豊かな言論」を載せる場との看板をかけながら、裏では世論に迎合する論調しか求めない媒体は多数ある。そうした業界人は「バズる」あいだはコロナやウクライナを一大事のように扱い、正義の後援者を装うが、世相が変わり「バズらなく」なるや関心を失う。そして検証も反省もいらない、終わった話題にもう読者はつかないと嘯きはじめる。
国民が不安に憑かれパニックに陥るほど、「これが正しい!」と断じる言論のニーズは高まる。だがそれ一色にメディアを染めようとする者は、ほんとうにその正しさを信じてやっているのか? 特定の論調のみに偏する態度は、「なにがバズるか」を先読みしやすい環境を愉しみ、効率よくアガリを取り立てる発想からも生じうる。
次の危機の際にもきっと、初めて見る専門家が次々メディアに現れて、「私たちが正しい。従えば混乱は鎮まる」と誘うだろう。しかし彼らの楽屋を動かすからくりは、安く酔わせるアルコール缶と同様の、依存症ビジネスかもしれない。それへの健全な懐疑心を保つことが、この令和の日本を蝕む病への、最大のワクチンにして治療薬になる。

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ほんとうはこの後に、最後の一節「溶けてゆく民主主義を、いま取り戻そう」が続く。が、さすがにそれは、書店でのお楽しみとさせてほしい。もちろん販売促進上の都合もあるが、決してそれだけじゃない。
内容のヒントは、ほぼ1年前に書いた、以下の記事にある。本書はふとしたことから「戦後批評の正嫡」を継いでしまったぼくなりの、彼らが同時代に行ってきた実践へのオマージュだ。だからこそ、大事にしたい。

なかでも誰の、どんな事績を受け継いでゆくかは、かねてからこのnoteで告知してきた。歴史家も、人文学者も、文藝評論家も、ほんとうは「センモンカにお任せして、TVを信じます」な態度とは、いちばん遠い職業なのだ。

危機への対応を国ぐるみで誤ったこの社会を “臨床” し、処方箋を描く作業から、真に令和にふさわしい人文主義が始まる。その第一歩をぜひ、以下のボタンをクリックするところから、いっしょに踏み出してほしいと思う。
この数年間、溶ける一方だった民主主義を、取り戻すために。
『なぜ「まちがえた」と言えないのか:専門家依存が壊すメディアの信頼』
参考記事:

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年10月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください








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