なぜ「まちがえた」と言えないのか

いよいよ本日10/21、拙著『なぜ「まちがえた」と言えないのか』が刊行になる。長年このnoteでも告知してきたとおり、2020年のコロナ禍以降の失敗の本質を振り返る、ぼくなりの令和史だ。

「専門家の時代」の終焉|與那覇 潤
いま連載を持っているので、送っていただいている『文藝春秋』の4月号が届いた。すでに各所で話題だが、「コロナワクチン後遺症の真実」として、福島雅典氏(京大名誉教授)の論考が載っているのが目につく。タイトルが表紙にも刷られているので、今号の「目...

コロナの次に来た、22年からのウクライナ戦争。同年の元首相暗殺をきっかけにした、闇の宗教団体へのバッシング。平成末からふり撒かれてきた、AIが人間を追い越す論。暗い世相をさらに煽る、各種の陰謀論や終末論……

そこに「私に従えば不安は収まる」と称して現われ、あれこれの断言を繰り返し、しかしまちがいがわかっても訂正しない。そんな仕方で、国民が「自分で考える」機会を奪い続けた専門家のバブルとは、なんだったのか?

なぜ日本の学者は「まちがえても撤回できない」のか|與那覇 潤
学者とは人柄を知らない時には、まったく素晴らしく偉い人に思われるのだが、近づけば近づくだけ嫌になるような人柄の人が多い。 学問が国民とまったく遊離しているという時の学者の典型は専門家である。 まったくの利己主義、独善主義、そして傲慢、しかも...

とくに第4章だけど(笑)、ずばりぼくならではの構成は、次のとおり。箸休めのように挟まる2つの補論も、ピリリとスパイスを効かせて、この間の世の中のおかしさが際立つように、コースの全体を組み立てたつもりだ。

なぜ「まちがえた」と言えないのか | 東洋経済STORE
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敗戦から81年後のまえがき
第1章
 なぜ、信じたら疑えないのか―「専門家依存症」という病
第2章 暴走する自然科学―新型コロナウイルス禍の真実
補論 「成田悠輔」とはなにものだったのか
第3章 機能しない社会科学―ウクライナ戦争の敗北
補論 専門家に「旧統一教会」を嗤う資格はあるのか
第4章 自壊した人文学―平成・令和の「歴史学ブーム」の末路
第5章 「答えのない時代」はいつ始まり、これからどう生きるのか
次の戦争に備えるあとがき

結論にあたる第5章については、すでにその一部を公開してきた。「まえがき」も注を外した形だが、以下で読んでいただける(実際の書籍では全篇にわたって、しっかりソースを注で示し、反証可能性を担保している)。

本日の発売に際し、書物のメッセージを締めくくるデセールたる「あとがき」を公開する。この数年間を思い出しながら、味わってみてください。

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次の戦争に備えるあとがき

危機のなかで「気づき方」をわかちあう

この本は、できることなら書きたくなかった。

そもそもコロナ禍もウクライナ戦争も、起きなければいちばんよかったことは言うまでもない。また、そこでの専門家たちの「活躍」ぶりが妥当であれば、否、誤りがあったにせよ本人が適切な反省を表明していれば、やはり本書は書かれる必要がない。

いや、当事者が自ら撤回しにくいのなら、異なる著者による(穏当な)批判を掲載するのは、メディアの仕事であり義務でもあろう。少なくとも異論に触れる機会が保障された上ではじめて、どの立場を選ぶかは「人それぞれの価値観であり責任」と呼びえるだろう。

しかしそのいずれも、この国では十分に実現してこなかった。なによりぼくが、その生きた証人である。

新書大賞の選考委員を辞退しました。|與那覇 潤
一昨日のホルダンモリさんとのシラス配信でもお話ししたとおり、2019年の刊行分から継続して担当してきた『中央公論』誌の「新書大賞」の選考委員を、この度辞退しました。 つまり、2023年分については(末尾に記す通り5冊選んではおりましたが)投...

本書の叙述では、どのようにぼくが専門家の――ないし彼らを絶対視するメディアや社会のおかしさに気づき、リアルタイムで異を唱えてきたか、その「きっかけ」や「コツ」が伝わるように、臨場感を持って綴ることを心がけた。ひとつには「後出しじゃんけんだ」といった誹謗を防ぐためだが、それだけじゃない。

次の危機では同じ失敗を繰り返さないよう、そうしたノウハウを読者とわかちあいたいからだ。もしその機会がこれまで、他の形で提供されていれば、無理に本書をまとめることもなかった。

インフルエンサー社会のいま、ただの一度でも影響力のある媒体がぼくを取材し、しかるべき人が「読む価値のある記事です」と拡散してくれるなら、書物を著す以上に広く教訓が伝わることがありうる。それ以上を求めるつもりは、ぼくにはもともとなかった。

だがそれすら行われず、だからこうした形で、すべてを1冊にまとめなければならなかったのである。

専門家依存が壊すメディアの信頼(10/21新刊を一部公開します!)|與那覇 潤
先週月曜にアプリを開けたら、ヘッダーのとおりの通知が来ていて嬉しくなった。当該の記事で紹介した、文藝春秋からのライブ配信も楽しく盛り上がった。みなさん、ありがとうございます。 そこでも話したとおり、今年起きた左派やリベラルの壊滅的な崩壊は、...
打診を黙殺した「学者というカルテル」

ぼくとしても、手をこまねいて見ていたわけじゃない。

専門家も「誤りうる」ということ。にもかかわらず無謬神話のように彼らに依存する、社会の思考停止は危ういということ。それこそをコロナ、ウクライナの経験として語り継ぐべきだと、こちらから多くのメディアに打診してきた(ふだん、ぼくは「頼まれたら受ける」のが仕事の基本で、そうした持ち込みはめったにしない)。

だがずっと、応じてくれる例は乏しかった。数少ない貴重な例外も、元は異なるテーマの企画の中で、なんとか工夫して専門家依存への批判を盛り込む形がほとんどだった。

日本列島を、弱く貧しくしてきた「専門家の王国」を取り除こう(朝日新聞とBSフジ出演!)|與那覇潤の論説Bistro
1/3の『朝日新聞』朝刊が、長めのインタビューを載せてくれた。翌日にさらなるロング・バージョンもWebに出たので、(有料だが)以下に掲げるリンクから読んでいただける。 ぼくがここ数年考えてきた "歴史" の社会的な意義を、多角的にお話しした...

公平に言って、いまメディアでぼくより「活躍」している識者はごまんといる。そうした知人たちに、その人のコロナやウクライナでの姿勢を踏まえた上で、どうか力を貸してほしいと頼んだこともある。

しかし返ってきたのは、いずれも無視であり黙殺だった。大学院生のころからの知己だったり、一緒に共著を作ったことのある研究者でもそうなのだから、遠くでぼくの試みを冷笑するだけの人もいっぱいいるだろう。

そんな体験を踏まえての憶測だが、学者(なんらかの専門家)にとって、そのくらい自らの無謬神話は「おいしい」のかもしれない。なにせ視聴者にそれを疑わせないかぎり、いくらでもメディアで恣意放埓を尽くすことができ、(一時の)称賛だけを得て責任はとらなくていいのだ。

あるいは、そんな特権をゆるがす営みに手を貸すなら、カルテル破りのように同業者の怒りを買い、裏切者として排斥される空気があるのかもしれない。それは「学問の自由」がすでに死んでいることの証明だが、その世界を離れたら生きられない人には、ぶざまでも最期までしがみつかねばならない筏なのだろう。

メディアも見捨てた「学問の自由」を、この際、削除する改憲ってどうだろう?|與那覇 潤
「参政党の当否」をめぐる論争が、収まらない。おかげで支持される理由の取材が、関係者でないぼくにまで来て、まずJBpressで記事になっている。全2回で、どちらから読んでもOKだ。 【與那覇潤が斬る参政党現象】「専門家は間違えない」という神話...
無謬神話を操る「依存症ビジネス」

もちろんメディアごとに編集の方針があり、人それぞれの事情もある。だが単に断るだけでなく、時流に抗しようとする姿勢そのものを侮辱した者は、責任を問われてしかるべきだ。

ぼくひとりの恨みで言うのではない。そうした裏方たちこそ、批判を口止めして封じる無謬神話のオーナーだからだ。ある意味では専門家もまた、彼らにとっては便利な商売道具として、おだてて躍らせては使い捨てる人形(パペット)にすぎない。

本来はこの場で一例をご紹介する予定だったが、編集上の判断で顕名での批判は控えることにした。だが本書を結ぶにふさわしい教訓として、次のことは言っておかねばなるまい。

ある編集者への手紙|與那覇 潤
以下は2024年12月23日に、ある編集者に送ったメールの全文である。とくに返信のないまま1週間が経ったため、目次と強調を附して公開する。 1. 今年を閉じるにあたって 爾来ご無沙汰しています。世界が大きく動いた2024年も終わりつつありま...

表には「学識豊かな言論」を載せる場との看板をかけながら、裏では世論に迎合する論調しか求めない媒体は多数ある。そうした業界人は「バズる」あいだはコロナやウクライナを一大事のように扱い、正義の後援者を装うが、世相が変わり「バズらなく」なるや関心を失う。そして検証も反省もいらない、終わった話題にもう読者はつかないと嘯きはじめる。

国民が不安に憑かれパニックに陥るほど、「これが正しい!」と断じる言論のニーズは高まる。だがそれ一色にメディアを染めようとする者は、ほんとうにその正しさを信じてやっているのか? 特定の論調のみに偏する態度は、「なにがバズるか」を先読みしやすい環境を愉しみ、効率よくアガリを取り立てる発想からも生じうる。

次の危機の際にもきっと、初めて見る専門家が次々メディアに現れて、「私たちが正しい。従えば混乱は鎮まる」と誘うだろう。しかし彼らの楽屋を動かすからくりは、安く酔わせるアルコール缶と同様の、依存症ビジネスかもしれない。それへの健全な懐疑心を保つことが、この令和の日本を蝕む病への、最大のワクチンにして治療薬になる。

なぜ日本のメディアは、ウクライナにもガザにも「飽きる」のか|與那覇 潤
5月に戦後日本についての歴史書を出すが、その次は「令和日本」の最大の課題である、堕落した専門家が振り回す社会の分析を書籍にする予定だ。温厚なぼくとしては「他人の悪口」で本を売りたくないが、穏当にことを済ませる試みを妨害し、嘲笑ってくる人がい...

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ほんとうはこの後に、最後の一節「溶けてゆく民主主義を、いま取り戻そう」が続く。が、さすがにそれは、書店でのお楽しみとさせてほしい。もちろん販売促進上の都合もあるが、決してそれだけじゃない。

内容のヒントは、ほぼ1年前に書いた、以下の記事にある。本書はふとしたことから「戦後批評の正嫡」を継いでしまったぼくなりの、彼らが同時代に行ってきた実践へのオマージュだ。だからこそ、大事にしたい。

他人を叩くための "正義" は、いかにしてニセモノになるのか|與那覇潤の論説Bistro
日本でも四季が消えたかのように、夏から冬への転換が急になっている。この夏の異常な暑さが尾を引き、9月末くらいまではふつうにTシャツで出歩いていたのが、嘘のようだ。 その猛暑の下、稀に見るアツい参院選も7月にはあったが、近年メディアを挙げて「...

なかでも誰の、どんな事績を受け継いでゆくかは、かねてからこのnoteで告知してきた。歴史家も、人文学者も、文藝評論家も、ほんとうは「センモンカにお任せして、TVを信じます」な態度とは、いちばん遠い職業なのだ。

「歴史を失くした10年間」のあとで|與那覇 潤
遠い将来に日本の歴史を書く人は、2015年から25年までのあいだを「歴史を失った10年間」と呼ぶだろう。そして、なぜそんなことが起きたのかを、不思議に感じると思う。 戦後70年の安倍談話の際は、検討する会議に入った人が「御用学者になった」と...

危機への対応を国ぐるみで誤ったこの社会を “臨床” し、処方箋を描く作業から、真に令和にふさわしい人文主義が始まる。その第一歩をぜひ、以下のボタンをクリックするところから、いっしょに踏み出してほしいと思う。

この数年間、溶ける一方だった民主主義を、取り戻すために。

『なぜ「まちがえた」と言えないのか:専門家依存が壊すメディアの信頼』

参考記事:

歴史はもう「皇室だけの家業」になったのだろうか(鼎談動画2本です)|與那覇潤の論説Bistro
時代が時代を「キャンセルする」ということが、あるのかもしれない。 焼け跡から始まった戦後という時代に、「戦前のキャンセル」という側面があったことは事実だろう。その戦後の価値観を否定することにだけ情熱を傾けるいまの政権は、80年後に来た「キャ...
ホンモノの戦後文体主義 vs ニセモノの令和人文主義(推薦の辞を公開します)|與那覇 潤
版元に頼まれて、本日発売の『「自分で考える」ということ』という本に解説文を寄せた。正確には「推薦の辞」なので、書籍の末尾ではなく冒頭に入る形になり、なんだか気恥ずかしい。 「自分で考える」ということ 澤瀉久敬(著) - 第三文明社医学哲学の...

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年10月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください

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