
言っていることと、やっていることが違う。人間は、そんなふうに生きている。そうやって人生は続いていく。そういえば、ムッシュかまやつさんは、楽曲がある海外の著名アーティストの曲に似ているときに、こう答えたそうだ。「いい曲は、似てくるんだよ」と。お、おお。なんか、素敵だ。説得力があった。
私もそうだ。労働者の味方を名乗りつつも、そのブルジョワ性を批判される。……幼少期は本当に貧しかったんだよ。都会に、内地に憧れていたんだよ。いつか豊かになりたいって思っていたんだよ。
問題は矛盾があることではない。矛盾を指摘されたときに、どう振る舞うかだ。
新刊『なぜリベラルは嫌われているのか』(星海社新書)
で、リベラルの言行不一致、身内への甘さ、自己批判能力の欠如について警鐘を乱打したばかりである。まさか、発売直後にこんな実例が登場するとは思わなかった。いや、私の本など、どうでもいい。問題は、リベラルが自ら掲げてきた理念を、自分たちにも適用できるのかということだ。
日本教育学会の対応が気になった。同学会の会長、本田由紀による皇族に関するSNS投稿が批判を受け、本人は謝罪し、その後、自身の投稿の曖昧さを反省し、今後は慎重を期すと表明した。ここは受け止めたい。
ただ、問題はそれだけではない。投稿直後の「解説」では、批判を「曲解」と位置づけていた。私には、まるで理解できない受け手の側が悪いと言っているように読めた。批判する側に責任があると警告する表現も含まれていた。
自分の意図を説明することは大切だ。しかし、意図が正しければ表現の問題は消えるのか。他者がどう受け止めたかを、理解力の問題にしてしまっていいのか。しかも、今回の反省の投稿では「趣旨は解説した通りです」とも述べている。
さらに、日本教育学会がまとめた見解は会員限定公開だ。しかも1カ月間だけだという。
関係者の尊厳やプライバシーへの配慮は必要である。そこは理解する。しかし、判断の根拠や要旨を広く説明することはできないのか。公開方法は法人理事会が決めたものであり、会長個人の判断とは区別する必要がある。それでも、学会としての説明責任は残る。
「かわいいだけじゃダメですか?」と言われるが、「会員だけではダメ」なのだ。私はそう思う。みんなはどうなの?
いや、笑いごとではない。社会に向けた発言が問題となり、その判断を社会から検証できない。これでは閉鎖的だと批判されても仕方ない。見解の内容がどうあれ、公開範囲を限定する判断そのものが問われている。
ここで、ある投稿を紹介したい。同学会の会長は2024年6月25日、自身のXで、政治家や公的な組織が質問に答えず、出すべき情報を出さず、間違いを認めて謝罪しないことについて、「徹底的な糾弾が必要である」と書いていた。
まったく、その通りだと思う。もっとも、今回は本人が謝罪しているし、日本教育学会は行政機関ではない。しかし、出すべき情報とは何か。誰に対して、どこまで説明するべきなのか。いま、まさに問われていることではないか。この原則を自分たちにも向けてほしいのである。
これが企業だったらどうか。トップの不適切な発言について調査委員会が見解をまとめた。ところが、社員だけが社内システムで期間限定で閲覧できる。おそらく、私は黙っていない。情報公開、説明責任、ガバナンスの問題だと指摘するだろう。学会であれば違うのか。研究者であれば違うのか。
権力の情報隠蔽、閉鎖的な意思決定、説明責任の欠如。これらは、リベラルが長年批判してきた問題ではなかったか。他者に向けたときには威勢のよかった正論が、身内の問題になった途端に勢いを失う。そんなことになっていないか。情報公開を求めてきた側が、公開を求める声を歯牙にもかけないように見えるなら、なんとも珍妙な話である。
新刊でも書いた。権力には説明責任を求めるのに、身内の問題には歯切れが悪くなる。多様性を掲げるのに、仲間内の異論には冷たくなる。民主主義を語るのに、自分たちの側の手続きには甘くなる。これでは、正しさが届くわけがない。
リベラルが嫌われるのは、間違えるからだけではない。間違えたときに、ふだん他者に求めている基準を、自分たちには適用していないように見えるからである。自由、人権、平等、多様性、寛容。これらの美しい言葉が、身内の正しさを守るための道具になってはいないか。そうだとしたら、普遍性を装った美しい言葉に堕してしまう。そんなことで他者の信頼を得ようというのなら、笑止千万である。
もちろん、これはリベラルだけの問題ではない。保守にも右派にもある。企業にも大学にも、だ。どんな組織にも身内を守ろうとする力学が働く。日本教育学会そのものをリベラルな組織と決めつけるつもりもない。だが、権力の恣意性や不透明さを批判してきた側だからこそ、自分たちの矛盾にも敏感でなくてはならない。
厄介なのは、身内への批判が裏切りとみなされることだ。リベラルの立場からリベラルを批判すると、転向した、右傾化した、敵に塩を送るのかといった反応が飛んでくる。批判の内容を検討する前に、発言者の立場が裁かれる。異論を尊重すると言いながら、内部の異論は歓迎しない。なんと白々しいことか。
SNSでは、仲間内で拍手されることが目的になりやすい。相手を叩き、論破し、正しさを確認し合う。だが、仲間内の拍手と社会の信頼は違う。正論を叫ぶことと、社会を変えることも違う。正義の大合唱が演じられている間に、その輪の外にいる人々の不満と不信は鬱積していく。身内から見れば悲劇であり、外から見れば喜劇である。
私は今回の発言者を排除しろと言いたいのではない。間違えた人間を永久に追放する社会など、まっぴらごめんだ。私自身、間違った発言をし、謝罪してきた。仲間内の正しさの熱狂に流されたこともある。批判される側の人間でもある。
だからこそ、問いたい。間違いを認め、修正することと、説明責任を果たすことを、なぜ両立できないのか。反省を認めることと、その後の説明を批判することは矛盾しない。人を切り捨てず、しかし問題を曖昧にもしない。そのためにこそ、リベラルの寛容と理性があるはずだ。
私が心配するのは、自由や人権という理念を大切にしながら、リベラルを名乗れなくなった人々である。私は「隠れリベラル」と呼んでいる。差別には反対だ。弱い立場の人を守りたい。しかし、正しさを独占し、他者には厳しく身内には甘い集団には入りたくない。そんな人々が静かに距離を置いている。
いまこそ、リベラルの内輪化を打ち砕くべきではないか。声を大にして訴えたい。他者に厳しくするなら、自らにも厳しくあれ。説明責任を求めるなら、自分たちも説明せよ。多様性を掲げるなら、内部の異論にも耳を傾けよ。都合の悪い批判を封じ、身内の論理で問題を瞞着するようなことがあってはならない。
「徹底的な糾弾」が必要だという。それは、私の得意技だ。徹底糾弾のための檄文の文例が、Evernoteに1.8万字ストックしてあるんだぞ。
だが、私がいま求めたいのは、「徹底的な自己検証」である。誰かを糾弾することに血道を上げる前に、自らの矛盾を直視せよ。他者の誤りに怒る力の一部を、自分たちを変える力に向けよ。
これはリベラルを潰すための批判ではない。リベラルを再起動するための檄文である。身内の不透明さに目をつぶって、権力の不透明さだけを弾劾する。そんな都合のよい正義とは決別しよう。仲間内の拍手を求めるのではなく、社会の信頼を取り戻すのだ。
リベラルを批判することは、リベラルを裏切ることではない。私はリベラルを愛している。だからこそ、満腔の思いを込めて訴える。自分たちの矛盾を見よ。身内への甘さを疑え。自己批判の狼煙を上げよ。
いまこそ、リベラルの戦闘的再生に向けて決起せよ。
リベラルをやめるな。リベラルを、身内のものにするな。
ロックンロール。
……最新作、夜露死苦。
『なぜリベラルは嫌われているのか』(星海社新書)

(編集部より)この記事は、常見陽平@yoheitsunemiのポストを、許可をいただいた上で転載いたしました。








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