上皇さまのいとこ・久邇邦昭氏が97歳で死去
上皇さまのいとこで旧宮家の久邇邦昭氏が、5日に亡くなった。久邇邦昭氏は上皇さまの母方のいとこにあたり、旧11宮家の一員で、1947年に皇籍離脱したあとは、伊勢神宮の大宮司や、旧華族の集まりである「霞会館」の理事長などを歴任した。
久邇邦昭氏は肺炎のため、5日午前、97歳で亡くなった。

久邇邦昭氏 1930年代 Wikipediaより
葬儀や告別式は東京・文京区の豊島岡墓地で営まれ、長男の久邇朝尊氏が喪主を務める。そこで、この旧宮家について、『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)、『系図でたどる日本の皇族』(TJMOOK)に従って解説する。
久邇宮家の初代は青蓮院宮・中川宮として幕末に活躍
久邇宮家は明治8年(1875)、伏見宮邦家親王の第4王子である朝彦親王によって創設された。朝彦親王は文政7年(1824)生まれで、天保9年(1838)に得度して「尊応」の法諱を賜り、興福寺塔頭・一条院の門主となった。嘉永5年(1852)には青蓮院門跡の門主に就き、法諱を「尊融」に改めた。また、天台座主も務めた。

孝明天皇の政治向きの相談相手となり、13代将軍徳川家定の継嗣問題では一橋慶喜を支持した。しかし、安政の大獄で隠居・永蟄居を命じられ、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居した。文久2年(1862)に復帰して国事御用掛に任じられ、翌年には還俗して「中川宮」の宮号と朝彦の諱を名乗った。
公武合体派の領袖として会津藩や薩摩藩と謀り、長州藩など急進的な尊王攘夷派を京都から追い出す「八月十八日の政変」を断行した。元治元年(1864)には宮号を賀陽宮に改め、公武合体派の重鎮として孝明天皇を支えた。しかし、幕府が長州征伐に失敗して尊攘派公卿が復権すると、徐々に求心力を失っていった。王政復古後は広島藩預かりとなり、明治5年(1872)に赦されて伏見宮家に復帰した。
明治8年(1875)に久邇宮家を創設し、伊勢神宮の祭主に就いた。神職を育成する皇學館大学(創設時は神宮皇學館)の創始者としても知られる。
香淳皇后の婚約に反対した元老・山縣有朋
朝彦親王は子だくさんで、王子からは初代賀陽宮、2代久邇宮、3代梨本宮、初代朝香宮、初代東久邇宮と、11宮家のうち5家が出ている。
久邇宮家を継いだのは朝彦親王の第3王子である邦彦王で、陸軍軍人として日露戦争に参加した。戦功により歩兵少佐に昇進し、第15師団長や近衛師団長などを歴任した。第5王子の多嘉王は臣籍降下せず皇族に留まり、伊勢神宮の祭主を務めた。
邦彦王の第1王子・朝融王は海軍軍人のキャリアを歩み、航空隊の司令官などを務めた。戦後は皇籍離脱して久邇朝融と名を改め、「久邇香水」を発売するなど事業に手を出した。だが失敗が続き、邸宅などを売却した。第2王子の邦久王は臣籍降下して陸軍軍人の道を歩んだが、32歳の若さで亡くなった。
邦彦王の第1王女で、島津忠義の娘の俔子(ちかこ)を母とする良子(ながこ)(香淳皇后)は大正7年(1918)、皇太子裕仁親王(昭和天皇)との婚約が内定した。ところが、兄の朝融王が身体検査で色弱の疑いがあると診断され、元老・山縣有朋らが邦彦王に婚約解消を迫った。しかし、反対の声が多く上がり、大正13年(1924)に予定どおり成婚となった(宮中某重大事件)。一方で、邦彦王は朝融王と酒井菊子の婚約を破棄しており、「一貫性がない」と非難を受けている。
戦後の久邇宮家と皇族の養子候補
朝融王の第1王子・邦昭王は海軍兵学校の途中で終戦となり、戦後は川崎汽船に勤務した。退職後は伊勢神宮の大宮司、神社本庁統理などを務めた。夫人の正子は日本生命の久世家出身。
その長男の朝尊は三菱商事などに勤めたのち、伊勢神宮大宮司も歴任した。良子夫人は東京学芸大学教授。次男は邦晴。
邦昭の弟に朝建王、朝宏王がいる。朝建王は西村俊一(元サクラクレパス社長)の長女・櫻子と結婚し、その長女の桂子は近衛忠大と結婚した。また、男子がおり、さらにその子が15歳になっていないが、潜在的には皇族の養子候補である。
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