ネット生保立ち上げ秘話(14)夏の陣 - 岩瀬大輔 

2010年07月14日 00:19

夏の霞が関

 夏の霞が関はクールビズが義務付けられている。普段はスーツにネクタイをしている保険会社の担当者も、当局に合わせる形で、この季節は誰もがクールビズ姿で現れて、保険課の前に列をなしていた。普段はカジュアルで過ごしており、当局に行くときだけネクタイをしめていた我々にとっては、ありがたかった。

 それまでは月 1回のゆったりとしたペースで進んでいた金融庁との事前相談のピッチが急にあがったのが、霞が関の人事異動を翌月に控えた6月のこと。この年の4月には、金融庁が生命保険会社に対して課した不払い問題の調査が期限を迎えており、業界は騒然としていた。一説では、不払い問題調査が終わった5月には、為替相場が円安に反発すると言われていた。不払い調査に駆り出されていた大手生保の外債運用担当者が再び現場に戻り、注文を出すからというのである。

 冗談のような話だが、市場関係者の間では真剣にまことしやかに囁かれていた噂だそうだ。


 6月のひと月だけで、アポが何件も入った。それまで大枠において相談をしていた事業方法書と商品約款について、審査のポイントとなるいくつもの論点について、千本ノックのようなやりとりが行われ、補足のペーパーを作成していった。ネット生保のメリット・デメリット、苦情対応、健康状態の告知、責任開始日と契約日、保険証券の発行、クーリングオフの方針など、この間だけでも15種類もの補足資料を作った。厳しい質問攻めと数多くの「宿題」も、7月には異動によって現場を離れる可能性がある担当官たちの置き土産であるかのように思えた。

手作りの認可申請書類

 それにしても、社長が自ら筆を取って基礎書類を魂を込めて書き、すべての折衝に自らが出向いたというのは、前例がないのではないだろうか。なぜかワード文書では常に太字の明朝体フォントを使って、両手の人差し指だけで打っていたが。7月は金融庁の人事異動があり、すべての作業がストップする。異動が終わって新たな職場に着任し、再び本格稼働がはじまるのは、8月である。やりとりをしていた5名のうち、事業計画と収支計画を担当する係長と、約款と事業方法書を担当する係長の2名が交替となった。いずれも、認可折衝上は中核をなすものであり、相手次第では時間がまたかかるかも知れない。まずは、新たに着任した担当官への挨拶が先決だった。

 年末に大きな引っ越しを控えていた合同庁舎は、会議室が足りなくなっていた。やむをえず、少し離れた場所にある霞山会館なる建物にある会議室が使われていた。僕らはいつもこの建物に早く到着し、1階にある喫茶店でアイスコーヒーを飲んで、約束の時間を待っていた。担当者の方は大きなバインダーを脇に抱えて現れると、地下の管理人室に行って会議室のカギを取ってきて、エレベーターを昇って会議室のカギをガチャガチャ開けてくれた。

 会議室は広いところで15畳あまりだが、ここではパーティションで中を3つに分けていたため、隣のやりとりも聞こえてきた。競合が隣で折衝をしているのも聞こえてきた。部屋は暑かった。作業は一気に進んだ。
 新たに商品約款と事業方法書を担当することとなった係長は、シャープな顔つきで、無駄な会話を好まなかった。冒頭で、

「約款や事業方法書は、誰が書いているのですか?」
と聞かれた。出口が間髪入れず、
「はい。社長である私が、すべて自分で書いています」
と答えると、
「新しい会社といっても、保険業界の常識が長く染み込んでいる方々がやってらっしゃるんですね」
と、辛口の言葉をいただいた。すぐに審査に入り、我々が見落としていた細かい事項を次から次へと指摘された。指摘はいずれも、的確だった。

 8月になると、再び審査のピッチがあった。8月の面談回数は、担当官4人を合わせて10回を数えた。金融庁もついに、本当に僕らに認可を出すべきか否か、集中的に検討を進めているように思えた。

2回目の引っ越し

 2007年9月14日の金曜日は、想い出に残る日となりそうだ。わずか4ヶ月だったが、新宿御苑の森に囲まれながら過ごしたオフィスに、別れを告げる。設立1周年を前にして、早くも2回目の引越しであり、3つ目のオフィスを構えることになる。

 我々社員全員が、このオフィスをこよなく愛していた。

 引っ越したときは5名で、空席がたくさんあり、ガランと、広々としていた。それが気がつくと、席も椅子も足りなくなっており、通路の真ん中に机がおいてあったり、狭いスペースに強引に丸テーブルをおいてみたりと、ぎゅーぎゅー詰めになった。

 次の引越し先を探し始めたのが、6月のこと。入居したばかりなのに、申し訳ない・・・と思ったが、やむをえない。大家にはできる限りの誠意を尽くして、株主の関連会社が期間を空けずに引き継いでくれるよう、話をまとめることができた。

 オフィスは、多くの人が自分の人生のなかでもっとも長い時間を過ごす場所である。だから、誰と一緒に過ごすか、そしてどんな場所で過ごすかは、その人の人生の幸せに大きな影響を与える。
 週明けから新しいオフィスにおいて新しい生活がはじまる。これはまた、ネットライフ企画が新しいステージへ突入することの象徴でもあった。

土壇場の修正

 約款や事業方法書の折衝の中で、もっとも大きな変更を余儀なくされたのが、9月28日の打ち合わせだった。我々は契約者と保険の対象となる被保険者が別の場合も想定して、事務フローを書きだし、それに基づくシステムを構築していた。たとえば、健康状態の告知については被保険者本人の手によらなければならないため、契約者がホームページを通じて申し込んできた後に、被保険者の電子メールアドレスも取得し、被保険者向けに個別URLを記したメールを送信し、クリックをして独自に告知画面から入力していただく、ということである。

 この点について、新しい係長から鋭い指摘が入った。契約者の顔が見えないネット生保という業態では、保険が悪用されるモラルリスクへの備えが非常に重要になってくる。他人を被保険者として勝手に保険に入らせ、自身が保険金などを受け取ることを目論むことがないようにするためには、契約者と被保険者はあくまで同一であることを求めるべきではないか?

 モラルリスクの防止という点をことさらに強調するならば、このような理屈が成り立つことは百も承知だった。しかし、ここでいま一度、よりモラルリスク防止に重点を置くことを示唆され、改めて検討してみると、確かにそちらを選択することが賢明のように思えた。システム構築に携わっていた事務チームは大きな修正を余儀なくされた。これによって、システム開発が大幅に遅れることになった。

お金が集まらない

 認可申請で激論を交わし、システム構築で締め切りを遵守することに手こずっていた2007年の秋。さらに厳しい現実に直面することとなった。

 約束されていたお金が、集まらないのである。

 当初出資をしてくれたあすかDBJ、マネックス、三井物産、新生銀行、セブン&アイの5社に加え、リクルートの6社までは、年末のファイナンシングに加わってくれることで、資本が80億円まで増資できることは、確定していた。しかし、対金融庁との関係では100億円以上の増資をコミットしていた。さらに、堅実な経営計画を考えると、少なくとも120億円の資本は調達したいと考えていた。

 そして、そのためには割と早くから出資を募っており、とあるVC2社が確定的ではないにせよ、コミットをしてくれていた。しかし、パリバショック後の資本市場の状況の変化を見て、彼らが急に強気の交渉を始めた。従来約束していた株価よりも3分の2の価格では増資に応じないということを、2社のVCの専務クラスが同時に申し入れに来たのである。偶然にしては、あまりにもできすぎた話だった。

 我々は茫然自失となった。せっかく、保険会社のITインフラが完成しつつあり、当局の認可申請が直前まできていても、最終的に保険会社が必要とする資本がないと意味がない。急いで外資系の投資銀行も数社訪ねたが、いずれも厳しい返事だった。

 このとき、ダメ元でサンフランシスコにあるベンチャーキャピタルに投資のプレゼンテーションをすることになっていた。しかし、結果は惨敗。その帰りに、米国でも有数のヘッジファンドの経営者である、知り合いに会う約束をしていた。

 彼の自宅で2時間、彼の家族とともに時間を過ごした。その帰り、ホテルまで送ってもらった車の中での20分が、その後のライフネットの運命をどれだけ変えることになったことか。

(つづく)

過去の記事

第1回 プロローグ 
第2回 投資委員会 
第3回 童顔の投資家 
第4回 共鳴   
第5回 看板娘と会社設立 
第6回 金融庁と認可折衝開始
第7回 免許審査基準
第8回 100億円の資金調達
第9回 同志
第10回 応援団
第11回 金融庁の青島刑事
第12回 システム構築
第13回 増えていくサポーター

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岩瀬 大輔
ライフネット生命保険代表取締役社長

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