保守主義の病理 - 松本徹三

2010年08月18日 19:42

「光の道」の議論の中で「電子教科書」の議論もホットになっています。当然、賛否両論がありますが、この議論を見ていても、私には「保守主義の病理」とも言えるものが随所に感じ取られ、一言言わないではおられなくなりました。話を分かりやすくするために、今回は、7月16日の北海道新聞に掲載されたノンフィクション作家の柳田邦男さんの投稿記事を槍玉に上げさせて頂きます。田原総一朗さん等もデジタル教科書反対論者のようなので、追ってコメントします。


柳田さんの議論の進め方自体は、妥当なものだったと思います。先ず前半で、7月27日に行われた「デジタル教科書教材協議会」の設立シンポジウムでの孫正義さんの講演の内容をきちんと紹介し、その上で、「だが結構ずくめの話には、<ちょっと待てよ>と一歩退いて考えてみないと落とし穴にはまる危険がある」と続け、そこから自分の考えを述べて、「かけがえのない人間形成期の子供達が、多くの時間を電子機器とばかり向き合う時代になった時、ゲーム感覚そのままに、自己中心で勝ち抜くことばかりを考える人間を生み出すことにならないか、今こそ教育現場で議論すべきだ」と結んでおられます。

この方に限らず、子供達がパソコン、ゲーム、ケータイといったデジタル機器に囲まれて毎日を過ごしていることに、違和感を覚え、危機感を募らせている人達は数多くいます。中でもケータイのメール中毒症状は、その最たるものでしょう。食事をしている間もケータイを離せず、親の話などはどこ吹く風、食べることにさえ集中出来ていない子供を見て、危機感を持たない人はいないでしょう。勿論、こういう状況は何とか変えていかなければならないのは当然です。

だからと言って、「子供にケータイなど持たせたら禄なことはないから、持たせるな」というのは乱暴きわまる議論です。ケータイは、今や、大人たると子供たるとを問わず、殆どの人達の生活の一部であり、「社会を支える仕組」の一部です。外を歩くには靴が、雨の日には雨傘が要るのと同じような状況です。従って、一部の人達が、一つの側面からだけものを見て、安易に「規範」を決めてよいようなものでは、最早なくなっているのです。

ケータイの問題に限らず、時代の変わり目には、新しい流れに違和感なく溶け込んでいく人と、そうでない人がいるのは、いわば当然のことです。どんなものにもプラスとマイナスの両面がありますから、このどちら側を見るかによって、新しいものに対する対応が180度変わるのも当然だからです。但し、マイナス面だけを見て全てを否定していたら、世の中には何の進歩も生まれないでしょう。何事につけ、「どうすればプラスを生かし、マイナスを防げるか」をきめ細かく検討することこそが、常に必要なのです。

私が「保守主義の病理」と呼ぶものは、次の4点から構成されています。

1)「変革」がもたらす「悪」を回避したいばかりに、「変革」そのものを「悪」と決め付けること。

2)とにかく「変革」は嫌いなのだが、「変革がもたらす悪」を特定できないので、争点をそらせて、周辺に「悪」を見つけ出そうとすること。

3)「変革がもたらすプラス面」、言い換えれば、「変革を拒否することによってもたらされるマイナス」については、敢えて目をそらして、論じないこと。

4)「自分が慣れ親しんできた古き良きもの(自らの価値観)」を、さしたる理由もなく、新しい世代に押し付けようとすること。

以下、柳田さんの論点に、この病理の一つ一つを当てはめてみたいと思います。

先ず、柳田さんは、「ケータイやゲームのようなデジタル機器に毎日接していると、親子や友人と接する時間が少なくなり、会話も出来なくなり、相手への思いやりもなくなる」と論じ、従って「同じデジタル機器である電子教科書と毎日接していると、同じ事が起る」と決め付けるが如き論旨を展開しています。

(本文の中にはそのような直接的な表現はありませんが、本文より重い「表題」には、ずばり「学校教育のデジタル化は子供の人格形成を阻害する」と書かれているので、恐らくそれが柳田さんの結論なのでしょう。)

しかし、ここには大きな論理の飛躍があり、私の言う「保守主義の病理」の1)が明確に示されています。

ケータイやゲームが問題視されているのは。年がら年中やっているからです。親子で話し合って、「ケータイやゲームは一日に一時間だけ」とか、「食事中は禁止」とかのルールを作れば良いのです。

一方、電子教科書を見る時間は、これまで紙の教科書を見ていた時間です。(尤も、紙の教科書よりは子供達にとってはるかに面白いので、恐らくその時間は倍ぐらいにはなるでしょうが、それは「子供が勉強をする時間が長くなった」事を意味するのですから、喜ばしい事でこそあれ、憂うべき事ではないでしょう。)

紙の教科書が電子教科書になったからと言って、紙と鉛筆を使っての「書き取り」や、「筆算」の練習時間がなくなるわけではありません。クラスで討論する時間がなくなるとか、体育の時間がなくなるというわけでもありません。先生は黒板に文字を書く代わりに画面を使うかもしれませんが、だからと言って、生徒との会話がなくなるわけではありません。

紙に印刷された「固定的な」教科書が、読み手の興味に従って内容が拡大する「柔軟な」デジタル教科書に変わったからといって、「利用者の意図に反して失われるもの」は何もない筈です。

次の問題は、先回(8月16日付)の私のブログ記事でも書いたことに関係します。

「光の道」の議論をすると、すぐに「ソフトバンクの得失」といった低次元な話に持っていく人達が後を絶たないように、ここでも、柳田さんは、ソフトバンクの社長である孫正義さんがデジタル教科書の熱心な提唱者であることから、「自分の会社の商売拡大の為に熱心なだけなのだ」という矮小な解釈へと、読者をいざなうような書き方を敢えてしておられます。

勿論そういう面があることも否めないでしょうから、「その点は割引して話を聞いた方がいいですよ」という程度の注意喚起はあってもよいでしょうが、それ以上にこの事を強調することには、何の意味もない様に思えます。「電子教科書」の功罪を論じる立場からは、その「功罪」のみを論じればよいのであって、それについて語っている人の職業や生い立ちがどうであるかというようなことは、本来、議論の本筋とは何の関係もない筈です。

今は世界中が環境保全に熱心で、「環境保全の為には太陽光発電が有効だ」という議論は至るところで耳にします。しかし、こういった議論が広まることが、明らかに太陽光発電システムをつくっているメーカーにとって有利なことであるにも関わらず、「そんなことは関連機器メーカーが自社の利益の為に言っているに過ぎない」等と言ってケチをつける人は何処にもいません。

人々が「環境保全」の議論をする時には、「本当にそんなに大切なことなのか」「どの程度の犠牲なら払ってもいいのか」というようなことが争点であって、「それで誰が儲かるのか」等ということを気にする人は何処にもいません。「電子教科書」の議論でも、その点は同じであるべきでしょう。ですから、敢えてこれにこだわっているかのような柳田さんの議論は、私には「保守主義の病理」の2)に該当するような気がしてならないのです。

そもそも、実際に自分で事業を起こそうという事など考えたこともない人には、「事業家精神」というものの本質を理解するのは難しいのだろうという気がします。孫さんが「デジタル教科書」に熱心なのは、「そうなると自分の会社が儲かる」と考えるからではなく、「それが良いことだ」と確信しているからです。彼は30年前に「デジタル情報技術こそが人間に多大の恩恵を与える」と確信し、この30年間ずっと、この確信に支えられて事業を拡大してきました。ですから、彼の確信と合致することが起れば、彼の会社の利益につながるのは当然なのです。

さて、次の問題に移ります。これは更に重要な問題です。

どんなことにもプラスとマイナスの両面があるのは普通ですから、マイナス面を色々と指摘するのはよいことです。しかし、こういったマイナス面を危惧するが故に、「変革」をやらないことは、それによって得られるはずだったプラス面を放棄することを意味することを忘れてはなりません。

柳田さんは「学校教育をデジタル化すれば、『自己中心で勝ち抜くことばかりを考える人間』を生み出す」というようなことを書いておられますが、それでは、「自分のことを自分できっちりと考えて、競争に勝ち抜ける人間」をどうして生み出していくかについては、何も言っておられません。

「優しさ」や「思いやり」は大切であり、その大切さを教える教育は必要です。しかし、それだけでは、教育の目的の一部しか果せない事を、あらためて訴えたいと思います。

(ちなみに、「優しさ」や「思いやり」の大切さを教えたければ、映像をふんだんに取り入れて、色々なストーリーの中に子供達を惹き込む電子教科書の方が、紙の教科書よりはるかに有利なのは明らかであり、「教育のデジタル化がその為にマイナスになる」という妄想については、馬鹿々々しくて論評する気にもなれませんが、ここでは、敢えてそのことには深入りしない事にします。)

「教育改革は可能か?」と題した8月9日付けの私のアゴラのブログ記事にも書きましたように、教育は多くの目的をカバーしなければなりません。「企業戦士」を育てることが教育の唯一の目的とは勿論思ってはいませんが、少なくとも、私は、「生存競争に勝ち抜ける能力を与えることもせずに、自分自身でつぶさに見てきた国際的な競争社会に日本の若者達を放り出す」程無責任にはなれません。

では、日本の教育が今のままで、将来の日本の若者達が国際的な競争力を持ちうるかといえば、私には全く自信はありません。柳田さんには自信がおありなのでしょうか?

「電子教科書を導入すれば、将来の日本の若者達は競争力を持てる」などという短絡的なことを、私はいささかも思っていませんし、そんなことを言うつもりもありません。しかし、電子教科書の導入すら躊躇しているようでは、どうやって教育の水準を上げ、日本の若者の競争力を上げることが出来るのでしょうか? 

私の「保守主義の病理」の3)にずばり該当してしまわないように、変革を拒否する人達には、きちんとした代替案を、自信を持って示して頂く必要があります。

私の「保守主義の病理」の4)については、あらためて多くを語る必要はないでしょう。

多くの保守主義者が好んで話すことは、「美しい日本」についてであり「古き良き時代」についてですが、それが本当に美しいことなのかどうかは定かではありません。著名な数学者の藤原正彦先生などは、「年功序列」についてまで「このような美しい日本の慣習は、今後とも守っていかなければいけない」と本気で言っておられる様なのですから、本当に心配になります。(私の見るところでは、日本の「年功序列」にどっぷり浸かってきたビジネスマンの国際競争力は、ほぼゼロに近いでしょう。)

TVドラマで中国や韓国の昔の科挙の試験のシーンなどを見ていると、巻紙に毛筆でさらさらと答案を書いています。実に美しい姿です。この時代は、故事来歴に精通し、漢詩をそらんじることが出来ねば、如何に見識があっても競争には勝てませんでした。しかし、我々の誰も、もうそんなことは出来ませんが、現在のビジネスの世界ではちゃんとやっています。

逆に、我々が現実に生きている今の世の中では、「英文のmailで日常の意見交換をし、ネットで必要な情報を手早くチェックし、グラフィックを駆使したプレゼンテーションで自分の考えを売り込む」といった事が出来ねば、如何に立派な見識があっても、次第に通用しなくなってきています。(こういうことが出来なければ、本当の実力を問う前の「簡単な一次試験」で敢え無く落第してしまい、将来の国際ビジネス社会においては、中国人やインド人の部下になるしかないのです。)

それぞれの時代で役に立つ武器は違うのですから、将来のある子供達には、大人達の好き嫌いは別にして、「将来役に立つ武器」を使いこなせる教育をちゃんと与えてやらなければなりません。視野の狭い大人達の勝手な思い込みで、子供達を「美しい弓矢」の世界に閉じ込め、「鉄砲」に触れることを禁じてはならないのです。

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