建国記念日の意義

2011年02月14日 12:43

私のコラムの担当は月曜日なので、この記事は月曜日の今日の掲載になっていると思うが、私が書いたのは2月11日の「建国記念日」だ。アジアの古代史に興味を持つ私は、日本の「建国記念日」が拠って立つ「神武天皇」にも当然興味がある。その為、今からちょうど二年前の2009年2月12日にも、「建国記念日に思う」という記事をアゴラに掲載させてもらっている。


建国記念日が定められたのは、国民に「建国を偲び、国を愛する心を持つ」ことを期待するが故だが、私はこの事に賛成だ。今からはるかの昔、日本の建国がどのようになされたかを学ぶ事は、当然アジアの古代史を学ぶ事に繋がり、そうすると、「アジアのコンポーネントであった日本」を嫌応なしに意識する事になるからだ。そうなれば、近年の日本人を蝕んできた「近隣の他民族に対する謂われのない差別意識や敵愾心」もなくなる筈だ。

或る程度の規模を持った「国家」というものが成立する前には、各民族は、今日では考えられない程ダイナミックに移動し、融合していた筈だ。戦争に敗れて、やむを得ず海に逃れた十数人のグループでも、流れ着いた土地にはせいぜい数十人の部落しかなかった筈だから、珍しい物をプレゼントして友好関係を結び、その近くに定着したり、或いは鉄製の武器を使って、強引に彼等を隷属させたりすることが出来ただろう。また、仮に海を渡ろうとした人達の相当数が荒海で遭難したとしても、数百年の単位で見れば、運よく生き残った人達だけでも、大きな歴史の転換を作り得た筈だ。

私は、最近、テレビの韓流歴史ドラマに刺激されて、京都大学の私の15年先輩に当る井上秀雄先生の著作を初めとする古代朝鮮史の本を何冊か読み、「成る程、大体はそういう事だったのだろうなあ」と納得しているが、多くの人達の「日本の古代史」についての興味は、もっぱら「卑弥呼の墓がどこにあるのか」という問題に絞られ、「アジアの中の日本」という観点からの突っ込みに乏しいのは残念だ。

井上先生などの本職の歴史学者の意見は、現実的で、あまり異論の余地はないが、私とほぼ同年代の小林恵子さんという方の書かれた「三人の神武」(1994年 文芸春秋社)に出てくる仮説は、古代の日本海や東シナ海をまるで内海のように扱っており、ちょっとスケールが雄大すぎる。

(「中国の江南地域から奄美大島経由で九州にやってきた人達が邪馬台国を作った」という架設はまあ良いとしても、「漢との戦いに敗れた高句麗第三代目の大武神王(無恤)が、日本に逃れて奴国の国王(或いは大和の葛城氏)になり、その後、また海を渡って、新羅の建国の祖である『赫居世』となった」というところは、私から見れば、やはり「荒唐無稽に過ぎる」と言わざるを得ない。)

それでも、「日本の『建国記念日』の主役である『神武天皇』には、その後の歴史の中で勢力を拡大させ、そのそれぞれの『伝承』(言い伝え)を『古事記』や『日本書紀』の中に反映させることが出来た『三つのグループ』の『開祖』の姿が、それぞれに反映されている」とする小林さんの「考え方」自体は、私としても納得出来るものである。「神武天皇」に具象化されたこれらの人達は、当然の事ながら、全て海を渡ってきた人達だ。

そもそも、「万世一系」の日本の国体の優位性を強調して、近隣の諸国民を見下してきた「かつての皇国史観」では、日本人の「開祖」である天照大神は「天から高千穂の峰に降臨した」とされているが、実際には人間が空から降りてくることはないから、恐らくは「朝鮮半島南岸の鎮海あたりから海を渡って北九州の高千穂に渡来した人物(恐らくはシャーマン)」の姿が反映されていると考えるのが自然だ。

また、「かつての皇国史観」を信奉した学者達は、朝鮮半島の古代史の中で「倭」という言葉が出てくる度に、「古代の日本はここまで勢力圏を広げていたのだ」と論じてきた(Wikipediaの日本語の記事の中にも若干そのニュアンスが読み取れる)が、実際には、古代の中国人が「倭」または「倭人」と呼んだ人々は、朝鮮半島の東部にずっと以前から住んでいたとされる「�美人」の一部だったのかもしれない。少なくとも「水辺に住んでいる連中」というニュアンスの共通項はある。

この頃の中国人にとっては、「東の辺境には、『�美』、『貊』(�美の一支族で、後に「高句麗」を建国)、『韓』(馬韓、弁韓、辰韓の三支族に分かれ、後に「新羅」、「百済」を建国)、『倭』などの民族が住んでいる」という程度の認識だっただろうが、この地域に住むそれぞれの民族の間では、交流や融合、戦闘や征服が、時に応じて複雑に絡み合って、色々な歴史を紡いできたわけだ。要は「親類の間でも、いざこざが絶えなかった」というような関係だったのだろう。

日本人が意識する古代の日本と朝鮮半島との関わり合いは、「大化改新」(AD 645年)の頃の百済との関係や、新羅と百済が争奪戦を演じていた弁韓地区に百済の肝いりで作られた「任那日本府」(現在は日本に住む弁韓出身の親類の出先機関)の事などが中心になるが、これは7世紀の中頃の事だ。

これに対して、神武天皇の即位はBC 660年とされているのだから、この間には1300年近くもの時差がある。つまり、「建国記念日」に「建国を偲ぶ」に当っては、「大化改新」の頃から更に気の遠くなるような昔に遡って、思いを馳せなければならないという事なのだ。

さて、私がこの様に「日本建国の頃のアジアの情勢」を重視するのは、「国家」という意識があまりなかったその頃の状況へと、これからの世界は次第に回帰していくのではないかと思うからであり、また、そうなるべきだとも思うからだ。

考えてみれば、「国家」というものは、極めて人工的であやふやなものだ。欧州の歴史を見ると、主として血縁関係で結ばれた個々のグループ(例えば王家)がそれぞれに一定地域で排他的な権力を持ち、その勢力圏を拡大したり縮小したりしてきた歴史だ。そして、ここから生まれた「国家意識」は、第一次大戦、第二次大戦でそのピークを迎えたが、現在は、産業・経済がその枠を破りつつある。EUの誕生も、言うならば「国家意識」の対極にある「経済合理性」が生み出したものであろう。

アジアにおいても、現状では巨大な全体主義国家である中国の存在が重くのしかかってはいるが、やがては国家間の壁は次第に薄くなっていくだろう。

幕末の一時期の長州と会津の抗争を引き摺って、山口県人と福島県人の間には、今日でもなお或る程度のわだかまりがあると聞くが、勿論そんなに深刻なものではない。一方、韓国でも、新羅の流れを引く「慶尚道」と百済の流れを引く「全羅道」が、一時期、地域として強く対立し、政治勢力をも二分した(金泳三と金大中)事があったが、今はもうそのような事はない。日韓両国民の感情的なわだかまりも、やがてはその程度のものとなれば嬉しい。

長州と会津の対立が、長い日本の歴史の中の一時期の事に過ぎなかったように、「日・中・韓3カ国の人達の間の近年におけるわだかまり(相互蔑視や敵愾心)も、長い歴史の中から見れば極めて一時的な事に過ぎなかった」と思える日が、一日も早く来ることを願っている。

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