先日、ある大物代議士に女性問題についてお話を伺う機会があった。開口一番、「男女平等とジェンダー平等は違いますよ」とのご指摘を受けた。いきなり顔面パンチ、しかしおっしゃる通り、的を射た発言だ。この方は、防衛や安保に造詣が深く、失礼ながらよもやこのような見解をお持ちだとは予想していなかっただけに、非常に新鮮であった。読書がお好きで、勉強熱心な方のようなので、ジェンダー関連の記事などにも目を通されているのだろう。
ジェンダー(gender)という言葉には、二つの語源があるらしい。一つは、種類や種別、性別、また男性性や女性性の質、人種を表す中世フランス語の「genre」、もう一つがラテン語の人種、種類、文法上の性別を意味する「genus」である。英語のジェンダーは後者の用法を継承し、フランス語、ドイツ語、英語などに見られる名詞や形容詞等の男性形、女性形、中性形といった文法上の性区分を示す用語として15、6世紀頃より使われるようになったという。文法用語のジェンダーは注目度の低い、地味な言葉だ。
ところが、1950年代から60年代の米国で、ジョン・マネーとロバート・ストーラーという二人の学者が、生物学的な性別(sex)とは異なる、社会環境の中で形成される性別を表す意味をジェンダーに付与した。この新しい用法は、男性社会の抑圧からの解放を求めていたフェミニストの心を掴み、1970年代以降はむしろフェミニズムの概念として認知されるようになった。やがて、人間の性別は、性自認のみならず生物学的性においてもは単純ではなく、男女という性別二分の観念はもはや通用しないことが明らかになり、ジェンダーは性や性認識の多様性を包括する言葉として使われるようになった。
今日、性や性自認の多様性を考慮して、性別をジェンダーと言い換える傾向にある。男と女という性別はもちろん存在するし、世の中の多く人は自分の性別が2つのうちの一方であることに疑念を持たない。しかも、この社会の多数派の男女の間には著しい格差があり、その是正を図り、男女平等を実現すべきことは、言うまでもなく重要だ。問題は、男女平等とジェンダー平等を等号で結び、それで事足りると勘違いし、男女二分の考え方を改めることができないことだ。
私は、日本政府が、法律や公文書、あるいは部局名で、男女雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法、政治分野における男女共同参画推進法、男女共同参画局と「男女」を未だに使用していることに納得がいかない。これらの取り組みの目的は男女間の格差の解消にあるので、もちろん名称に誤りはない。私の不満はそこではなく、国が公然と男女二分論を宣言している点だ。
数年前、私が講義でこれらの施策の内容の不十分さを指摘すると、トランスジェンダーの友人がいるという学生から、不十分なのは内容ではなく、「男女」という名称だと反論された。その学生は、友人は自分という存在が国家から見捨てられたと感じるのではないかと述べた。私は、思いも掛けない意見に驚くと同時に、想像力の欠片もない己が恥ずかしかった。性自認で悩む人にとって、男女を被せた法や部局の名称は、かれらに深い疎外感を与えるに違いない。何よりも「誰も取り残されない社会」というSDGsの理念に反するものだ。
男女○○をジェンダー○○に改められないのか。参院法制局によると、法規における外来語の使用基準は「その言葉が日本語として定着していると言えるか否か」にある。また、日本語による代替可能な言葉がない、表現のわかりやすさなどの点も考慮されるという。厳しく制限しているようにみえるが、結構な数の外来語が法規や政府文書に使われている。最近では、菅内閣肝煎りの「デジタル庁」だ。まだ仮称だが、これを日本語で代替するのは難しい気がする。
ジェンダーは、森喜朗氏の女性蔑視発言の効果もあって、急速に定着しつつあるうえ、代替可能な日本語がなく、多様な性/性自認を一言で表現できるという点で、外来語使用基準を十分にクリアしているように思われる。さて、ジェンダーを使用するとなると、○○の部分、「共同参画」ではどうにも座りが悪い。これも「平等」に改めるべきだろう。自由で開かれるのはインド太平洋だけでなく、国内もそうあるべきだし、その社会に望まれるのはジェンダー平等だ。