中国共産党の習近平国家主席は4月25日、広西チワン自治区桂林市の記念公園を訪問し、中国革命が成功した秘訣は「理想と信念」にあると述べた。公園は党の創成期に行われた「長征」の中でも激戦の一つとされる「湘江の戦い」で戦死した紅軍兵士を記念したものと国営新華社は伝えた。
これを報じた環球時報(党機関紙人民日報傘下)は、人民解放軍の前身である紅軍はこの伝説的な長征によって中国共産党の最終的勝利の基礎を築いたとし、34年の冬、紅軍は激しい戦いの中で湘江を渡り、国民党軍の封鎖を突破したが、数万人の命が犠牲なったと述べる。
記事は、長征は中国共産党の意志と勇気、そして強さを試し、重要課題を克服する回復力を際立たせ、革命的な殉教者たちは無駄に犠牲を払わなかったとし、中国共産党は49年の中華人民共和国成立以来、国民に経済的奇跡と長期的な社会的安定をもたらしたとこれを称賛する。
長征とは、共産党根拠地への国民革命軍による五次の囲剿(包囲掃討)戦からの脱出作戦で、34年から36年にかけ江西省瑞金から陝西省延安まで、指導層の対立の中、「敵の封鎖線を突破し、追尾を逃れて」、兵の9割を失いながら11省の険阻を踏破した「2万5千里」の苦難の行軍のこと。
この習の言動を、中国官製メディアの役割と記事の内容から忖度すれば、自らの暴走が招いた国際社会による中国包囲という現下の苦境を、蒋介石の国民革命軍による囲剿戦に準えて、師と仰ぐ毛の「長征」宜しくこれから逃れるべく、党と自らを鼓舞するためにここを訪れたということか。
「毛沢東-ある人生」(白水社)で著者のフィリップ・ショートはこう「湘江」に触れている。
1935年1月に紅軍が遵義で行軍を停止すると、毛はやっと党指導部で揺るぎない地位に就いた。他の皆が間違っていた時も彼は正しかったと仲間たちが認めたからである。根拠地が陥落していなければ、或いは博古があんなに心配性でなくもっと助言に耳を傾けていたら、或いは紅軍が湘江横断の失敗で酷く痛手を負っていなければ、はたまたブラウンがそれほど独裁的でなかったなら、毛の時代は来なかったかも知れない。
ショートは湘江横断の失敗を党内での毛台頭の要因の一つに挙げ、毛がこれを何らか利用したことを示唆する。この著者は「マオ-誰も知らなかった毛沢東」(講談社)を書いたユン・チアンとジョン・ハリディの夫妻とは違い、毛を、権謀術数を弄してばかりいる極悪非道の徒として描いてはいない。が、それでも「湘江の戦い」での失敗が毛に幸いしたとの評価を下している。
その「マオ」は、過酷な毛時代を生きた3代の女性を軸に、質の高い膨大な資料を駆使して描いた「ワイルドスワン」の作者と、ロシアを知悉する歴史学者として豊富な資料を持つその夫によって書かれた衝撃的な毛の伝記だ。本稿では「マオ」の記述に他の資料を絡めて「湘江の戦い」を追ってみたい。
■長征までの毛沢東
1912年に孫文が辛亥革命で清朝を倒した後も、中央政権が40回も交替したほど中国各地で軍閥との戦いは収まらなかった。20年10月に広東政府(翌年中華民国)を立てた孫文は、国民党革命軍による軍閥平定を試み、孫文が二度(22~25年)、蒋介石が三度目(26~28年)の北伐を行った。南(広東)の政府による北洋軍閥(袁世凱の北京政府)の打倒戦ゆえ「北伐」と称される。
中国共産党は1920年8月、ボルシェビキが5月に上海に設けたコミンテルンを基に創設された。初代の総書記は陳独秀で、毛沢東は長沙代表として出席したが創立メンバーではなかった。党史上の創立年である21年7月の第一回党大会議長は、後に毛に謀略で除名される張国燾だった。
23年1月、モスクワ(ソ連とコミンテルン)は共産党幹部に国民党入党を指示する(第一次国共合作)。袁政権がソ連の外モンゴル占領を認めなかったため、モスクワと孫文の利害が一致した。中国征服のためソ連を頼む孫文は、鉱物資源の豊富な新疆をソ連に差し出す提案すらした(大隈政権による対華21ヵ条要求も容認した)。
孫文を節操ない嘘つきと見ていた共産党幹部は、国民党入党に異議を唱えたが、これも節操ない実利主義者の毛は進んで国民党入りしモスクワの歓心を買った。毛はこの時、「国民党は革命的民主勢力の主体を構成しており参加を恐れるべきでない。が、経済が発展してプロレタリアが強くなれば、共産党は独立を維持すべきだ」と述べた。
孫文が25年3月に死亡し、ソ連に受けの良い左派の汪精衛が主席となった国民党政府では、蒋介石が北伐での軍功で汪に次ぐ地位を確立していた。蒋は国共合作で左傾化した党の暴力的解放路線に反発、26年3月20日には戒厳令を布告し、広東衛守部隊の共産党員将校らと砲艦中山号の艦長を逮捕した(中山艦事件)。
このクーデターをモスクワは黙認し、ソ連上級顧問2名が帰国、汪も欧州へ逃れた。当時、国民革命軍の共産党員の最高位は周恩来で、蒋の第一軍の代理政治委員兼黄埔軍官学校政治部主任だった。国民党農民運動委員会委員で広州農民運動講習所所長になっていた毛は、周と会って蒋への反攻を主張する。が、モスクワはこれを却下、国共合作は維持され北伐も継続した。
毛は国民党内で左派の吸収と農民層の動員に励んだ。ソ連人顧問の指導の下、湖南省に国民党が農民協会を設けたのは26年暮れだが、この農協が社会構造破壊の先兵になる。貧農層が富農層(地主)から略奪を始めたのだ。瞬く間に農村は後の文革さながらの騒乱状態に陥るが、毛は27年3月、これを肯定的に捉えた「湖南農民運動視察報告」を書き、これがスターリンに認められる契機となる。
毛は27年8月の南昌蜂起や秋収蜂起などの国民革命軍内の共産党員将校による反乱を利用し、権謀術数を駆使しつつ、朱徳、彭徳懐、賀竜、葉剣英、林彪ら、後に人民解放軍の元帥となる国民労農紅軍のトップ級を配下に引き入れ、31年11月、江西省瑞金を首都に成立した中華ソビエト共和国の主席となる。この時点で共産党の根拠地は福建、湖南、湖北、河南、安徽、浙江の各省にあり、毛は広西と福建の中央根拠地を指導した。
■蒋介石、南京政府を立てる
26年4月6日、反共の満州軍閥張作霖が支配する北京政府はソ連大使館を捜索、潜伏する共産党幹部60人を逮捕した。上海でも12日、白崇禧指揮の国民革命軍と杜月笙配下の青幇(やくざ)千人が共産党の拠点を襲った。上海にいた周恩来はゼネストを命じたが、銃撃でデモ隊2百名が死傷した。蒋は「青党」と称し、ソ連顧問ボロディンや毛を含む共産党員2百名を指名手配した(上海クーデター)。
長沙でも5月21日、唐生智軍の守備隊長許克詳が、共産党が拠点とする総工会(労組連合)や農協を襲い、3週間で約1万人を長沙周辺で殺した(馬日事件)。7月15日、共産党中央は武漢で国民党左派を糾弾し、国民党左派も共産党員の排除を決め、ここに第一次国共合作は終了する。
蒋介石は南京に国民党政府を立て、27年9月に武漢政府を南京政府に統合した。武漢の主席だった汪精衛は再び欧州に、ボロディンは車でゴビ砂漠を抜けソ連領に逃げた。斯くて国民党左派は崩壊、蒋は28年6月に北京を制して北伐を終え、30年5月の反蔣軍閥連合との中原大戦にも勝ち、9月の張学良の易幟を以って中国の支配者となった。ここから国共内戦が本格化する。
(後編へ続く)