昨年7月17日総務省は、都道府県選挙管理委員会に同委員会が発行する選挙公報に掲載する候補者情報についての変更を通知した。変更点は、性別の記載を取りやめ、生年月日の代わりに年齢を、また住所については市町村までの記載とする。ウェブサイトの選挙情報では、年齢も記載せず、氏名、所属政党(党派)及びウェブサイトアドレスのみになった。
本通知は、「技術的助言」であり、通知に従うか否かはそれぞれの選挙管理委員会に任されたが、数日前のNHKのニュースによると、47都道府県すべての選管が本通知に従い、性別記載の廃止を決めた。
ニュースの中で、東北大学大学院の河村和徳准教授が「LGBTの人たちが立候補しやすくなるという点で意味がある」とコメントされていた。その通りであろう。だが、それ以上にジェンダー平等への象徴的効果が期待できる点に注目したい。
私は常々公文書が性別を明示することに異議を唱えてきた。政府や公的機関が性別二元論(人間の性を男女の2つのみに限定する考え方)を表明することは、性別違和や性別区分を乗り越えようとする人びとの存在を無意識であれないがしろにするからである。19日の公示から投票日の31日まで、大勢の人びとが目にするであろう文書から性別が除かれた意義は小さくない。
それにもかかわらず、選管の決定に釈然としないのも事実である。女性候補者の動向が見え難くなるからだ。性別は、一般的には有権者の投票行動に必要不可欠な情報とは言えないかもしれない。有権者の判断材料は、候補者の所属政党、公約、現職と元職の場合には政治的成果や業績、新人であればこれまでの経験、人柄や人物像といったところだろう。これらのうち選管の公報から知り得る情報はごく一部に過ぎず、より詳細な情報は新聞、テレビ、SNS、街頭や立ち会いの演説などから得ることになる。
性別不記載による有権者の不利益はないようにみえる。しかし、本当にそうなのであろうか。
衆議院の女性議員比率は10%足らず。国際比較で見ると、193カ国中 165位(2021年9月1日現在、列国議会同盟による)という低さだ。世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数の順位も然り。こうした低水準の女性の地位に、政治家の女性蔑視発言も相まって、日本にはジェンダー不平等国家というレッテルが定着した感がある。
2018年5月に制定された「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律(以下、推進法)」は、政党に選挙候補者の男女比率をできる限り均等にするように求め、女性議員の増加をめざす。
しかし、この定めは努力規定であり、政党には候補者の選定の自由が、また個々の候補者にも立候補の自由が保障されるゆえに、実効性に乏しい。事実、推進法制定の翌年に実施された先の参議院選挙の女性候補者比率はその前の2016年よりも僅か3.4ポイント増えただけ、当選者に至っては0.5ポイント減少した(総務省選挙情報)。
ところが、今回の総選挙、女性候補者のかなりの増加が期待できるかもしれない。確たる証拠はないが、女性候補者への注目度がこれまでになく高まっているように思われる。汚名返上への機運が高まっているのかもしれない。また、推進法には、努力規定とはいえ、その努力が数値によって可視化されるだけに各政党の女性擁立に睨みを効かせる効果が期待できる。
政党にも積極的な動きがある。たとえば、立憲民主党が候補者を男女同数にする「パリテ」を立ち上げた。果たしてどの程度実現でき、また女性たちはどういった選挙区から立候補対するのか(立憲民主党・ジェンダー平等推進本部・女性候補者擁立・支援策)。
対する自民党は男性の現職や後継者がひしめく中で女性をどの程度擁立できるのか。女性候補者の動向は今回の総選挙の隠れた争点だ。
したがって、各政党には、選挙中自党の全候補者に占める女性の比率やその選挙区の傾向など女性の立候補に関する情報を公表することを提案したい。有権者の判断材料に一つになるはずである。
男女共同参画局は、女性の現状を可視化し、正しく把握する「見える化」を女性活躍の第一歩と位置づける。性的少数派の人びとに配慮しつつ、女性の「見える化」もやはり必要なのである。