外交官林董の治績・日英同盟の成立背景とその有用(前編)

高橋 克己

安倍晋三は歴代最長となる3188日の総理在任中、80の国と地域を延べ176回訪問した。その存在感からか、彼の内閣で3年8ヵ月外相を務めた岸田現総理の外交責任者としての影は若干薄かった。が、総理となって外相に林芳正を選んだ以上、二人には是非とも国益に資する外交に邁進して欲しい。

外交の黎明期明治の対外重要課題は、領事裁判権や関税自主権、片務的最恵国待遇などで不平等だった安政条約の改正だ。日本は清とロシアという大国と戦ったが、講和を交渉した陸奥宗光(1844.8-1897.8)と小村寿太郎(1855.10-1911.11)が当時の外相双璧だったとは多くの者が認めるところだろう。

左:陸奥宗光 右:小村寿太郎
出典:Wikipedia

それは小村の在任2期7年4ヵ月が最長で、陸奥の4年9ヵ月も、外務卿と初代外相を6年3ヵ月務めた井上馨(1836.1-1915.9)に次いで長いことからも知れる。本稿はその小村の1期目と2期目の間に2年2ヵ月外相を務めた、陸奥に見出された林董(ただす:1850.4-1913.7)と彼が尽力した日英同盟について見てゆきたい。

これを取り上げるのは、目下、世界を股にかけて覇権主義の戦狼外交を推し進める習近平の共産中国を包囲するための国際社会の連携- 日米同盟、ファイブアイズ、クアッド、AUKUSや近時では加盟国のバルト3国や米国の議員が相次ぎ訪台するNATOも含む- が、その重要性が増しているからだ。

筆者は日米同盟に豪州と台湾を加えるべきと思う。なぜならこの両国と日本は、中国の主張する東シナ海から南シナ海に至る、いわゆる第一列島線の両端と中間に位置し、米国を介した日米同盟、AUKUS、そして事実上の軍事同盟である台湾関係法などにより、既に個別に国防上の利害を共有している。

共産中国によるウイグルでのジェノサイドを豪政府系のシンクタンク「ASPI」が暴いて以来、中国との対立を深めている豪州は、先頃AUKUSに加わって米国に原潜8隻を発注し、また2日までに豪州の上下両院は中国を念頭に、日本が躊躇する人権侵害制裁法案「マグニツキー法」を可決した。

台湾で1日に行われたシンポジウムにWeb参加した安倍元総理は「新時代の日台関係」と題する講演で「台湾有事は日本有事」と断じた。加えて「(中国が軍事的対象とする)台湾の周辺には、これは尖閣、先島諸島、与那国島など、日本の領土領海、と言っても同じことですが・・」と、台湾も領有権を主張する尖閣に触れたが、当然の主張とはいえ、この箇所だけは場にそぐわないと感じた。が、台湾は「森を見る」大人の対応で聞き流した。

つまり、かつて日本に統治された台湾とも、そして先の大戦で干戈を交えた豪州とも、今や共産中国という共通の脅威を前にした日本は、過去の恩讐を越えて同盟関係を結ぶべきと思うのだ。日米同盟も先の大戦を乗り越えて得たものだ。過去の恩讐を越えた志ほど、強く尊いものはなかろう。

本論に入るが、林董には東洋文庫に収録された『回顧録』、『後は昔の記』、そして『日英同盟の真相』という著作、あるいは記者の聞き書きがあり、また昨年逝去した比較文化史家芳賀徹の『外交官の文章』(筑摩書房)にも董に触れている章がある。以下の多くはそれらに依拠している。

林董(1902年)
出典:Wikipedia

日英同盟は1902年(明治35年)1月30日の第1次協約から1923年8月まで21年と半年、3次にわたり存続した軍事同盟。他方、董の外相在任は06年5月から08年7月までの2年余りなので、彼がこれに関わったのは外相としてではなく、00年7月に就任した英国駐剳特命全権公使としてのことだ。

董の公使着任は第2次山県内閣の時で、外相は青木周蔵(1844.3-1914.2)だった。董は05年12月、第1次桂内閣の小村外相の時、駐英公使の大使昇格によって駐剳特命全権大使となり、第2次日英同盟締結に尽力した後、5年8ヵ月の英国在勤を終えて06年3月に帰国、その5月に外相に就任した。

因みに青木外相は89年5月に起きた大津事件(巡査によるロシア皇太子襲撃事件。兵庫県知事だった董は神戸に上陸した皇太子を楠公神社の案内など接待した)で辞任し、榎本武揚(1836.10-1908.10)が同職を継いだが、董にとって榎本は妹の夫、つまり年上の義弟に当たる。

董は今の千葉佐倉市で生まれたが、それは祖父佐藤藤佐(とうすけ)が羽後山形から江戸に出、そこで蘭学を学んだ父泰然が佐倉藩家老の知人を介して開明派の君主堀田正睦に頼り、蘭学医として順天堂を建てたことに依る。

林の姓は姉が嫁いだ幕府御典医林洞海(父泰然と同門)の養子に董12歳の時になったからだが、以前本欄にその逸話を書いた高橋是清(1854.9- 1936.2)と言い、この時代の傑物には養子が多く、またそれが後の立身にも幸いしている。

林一家は董13歳の時に横浜に転居、その地で彼はヘボン夫人に英語を学び、17歳で幕府派遣の英国留学生に選ばれるが、これも是清(留学先は米国)と似る。董の抜擢は英語の実力もあるが、長兄良順(幕医松本良甫の養子)が初代陸軍軍医総監(森鴎外は13代)だったことにも依った。

この留学は明治維新のために1年余りで終わる。帰国直後に会った年長の義弟榎本に共鳴して函館戦争に加わった董は、1年間禁固となった後に戻った横浜で、6歳年長で欧州巡視から帰国した陸奥宗光と兄良順を介して出会い、以来、陸奥が没する97年までその引き立てを受けた。

海援隊当時の天満屋事件で5年の獄中生活(伊藤博文の計らいで獄室は旅館並みだった『明治の政治家たち』服部之総:岩波新書)を送った陸奥は、波長があったのか董を和歌山の陸奥家に寓居させ、翻訳などに携わらせた。71年の廃藩置県で陸奥が神奈川県知事になると董も同県庁出仕となり、その年のうちに陸奥の保証で岩倉使節の二等書記官に選ばれる。

董は『後は昔の記』に、岩倉使節の趣意は「王政復古を欧米各国に通知する」ことで、帰朝後に三条実美の使節を派遣するはずだったとし、条約改正は岩倉使節の目的ではなかったが、米国での歓待ぶりを見た駐米公使森有礼が、「此機に乗じて条約改正を申出したならば忽に成功すべし」と述べ、「其儀に決した」と書いている。

大久保・伊藤の両副使が全権委任状を取るために一時帰国したことはよく知られるが、この経緯を董は「条約の商議をするには夫々作法手続きを要するが、使節が携帯する国書は聯問使を発すると云う国書で、条約談判の委任状では無い」と「国務大臣フィシ」(ハミルトン・フィッシュ国務長官)に言われたから、と書いている。

明治政府が改正交渉を岩倉使節が各国で行うことを各政府に通知したので、各在日公使は交渉の顧問に加わるべく、本国に召還された。が、帰国途中に米国に寄ったドイツ公使ブラントから岩倉使節は、外国での改正だと、一国に譲ったことが各国に波及して日本の不利となる、との忠告を得る。

これを董は『回顧録』で、外国での交渉は相手外務省の手柄となり、日本での交渉なら各国全権公使の功となるのでブラントが言い出したことだが、一理あるので使節団は愕然とした書き、岩倉公は米国に戻った伊藤に、フィッシュに個別交渉は時間が掛かるから欧州で纏めてやりたい旨を談じさせ、日本ならまだしも欧州に米国の委員は出せないとの回答を得て、物別れに持ち込んだと記している。

これら岩倉使節での経験が董の外交官としてのキャリア- 91年から榎本・陸奥の両外相の外務次官として日清戦争や三国干渉に対応した後、95年に駐清公使、97年から3年間の駐露公使(スウェーデン・ノルウェー公使兼務)を経て駐英公使となり、帰国した06年から2年間外相- に役立ったに相違ない。

中編に続く)

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