17世紀のフランスの哲学者ブレーズ・パスカルは「人間は考える葦」という。その前提は人間の行動には自由意志があるということだ。人間はロボット(人工知能)ではなく、自由に考えて行動する存在というわけだ。「言論の自由」、「信教の自由」もその人間の自由意志が前提となっている。近代史は、人間の抑圧されてきた自由意志を解放していく歴史だったともいえる。
ところで、精神分析学の創設者ジークムンド・フロイト(1856年~1939年)は「意識」のほかに「無意識」という概念を生み出し、無意識が人間の自由意志に基づく精神生活で大きな影響を与えていると考えてきた。フロイトの「夢の解釈」はその無意識の世界を解明する試みだった。そこにスイス出身のカール・グスタフ・ユング(1875年~1961年)が登場してきた。ユングは無意識の解明だけでは葛藤する人間を解放できないとして、「集合的無意識」という新たな概念を考えた。
「集合的無意識」とは、個人の無意識の世界だけではなく、個人を超え、人類共通の無意識の世界だ。それを突き詰めていくと、人間の魂にアーキタイプ(元型)の心像の基本があるというのだ。無神論者であったフロイトとは違い、プロテスタントの牧師の家庭に生まれ育ち、後にバーゼル大学医学部を卒業したユングにとって、宗教は重要なテーマであり、心理療法と宗教を結び付けていく。ドイツの神学者オイゲン・ドレーマンは、「ユングにとって宗教は最も中心的な問題だった」と指摘している(「人類歴史が刻印された『集合的無意識』」2022年4月20日参考)。
フロイトは個々の無意識の世界を重視し、そこにさまざまな精神的病因を探求していったが、ユングは意識、無意識のほか、第3の「集合的無意識」という世界に目を向けていった。「夢の解釈」もフロイトのように患者個々の体験の分析に留まらない。患者本人が体験していない事例の夢を見、それに苦しむという患者が実際にいるからだ。
フロイト、ユングら精神分析学者の活躍後、脳神経学が急速に発展してきた。そこで大きなテーマは「人間には自由意志はない。それは幻想に過ぎない」と考える学者グループと、「自由意志があり、責任もある」と受け取る学者たちが出てきた。
独フライブルク大学で2人の脳神経学者ハンス・ヘルムート・コルンフーバー教授とリューダー・デーケ教授は1960年代、実験を通じて人間が随意運動をする直前、脳神経に反応が見られることを発見した。これはBereitschaftspotential(BP,英Readiness Potential)と呼ばれる。この発見はその後の脳神経学の研究に大きな影響を与えた。
脳神経学者には、デーケ氏らが発見したBPの存在について、人間に自由意志があることを証明するのか、それとも神経細胞(ニューロン)の自律的反応に過ぎないのかで解釈が分かれていった。例えば、米国の心理学者ベンジャミン・リーベトやドイツのゲルハルト・ロートらは、「人間はマリオネットのような存在だ」、「遺伝素質、環境、教育、化学、神経網などで動かされている」という決定論者的な解釈を取った(「人間に『自由意志』はあるか」2016年8月25日参考)。
自由意志の有無は脳神経学者や心理学者だけではなく、哲学、神学、法学など多くの分野でも大きなテーマだ。例えば、人間はマリオネットに過ぎず、自由意志が存在しないとすれば、その人間が罪を犯した時、刑罰に処することができるかという問題が出てくる。脳神経学者の「人間には自由意志がない」という主張が一時期、米国の司法界にも一定の影響を与えた。その結果、脳神経の欠陥という理由で多くの犯罪者が刑罰を逃れるケースが出てきたからだ。
興味深い研究としては、ベルリンの脳神経学者ジョン・ディレン・ヘンスが信号の実験を通じ、無意識の決定に対し意識が拒否するメカニズムを証明し、人間が単なる無意識の世界に操られた存在ではないと主張していることだ(「シュピーゲル誌」2016年4月9日号)。それをFree Unwille(自由な不本意)と呼んでいる。人は自身の無意識の決定に対し、“拒否権”を有しているというのだ。
蛇足だが、英国の天才的数学者アラン・チューリングの夢だった“心を理解できる人工知能(AI)”はもはや夢物語ではなくなってきた。実際、ニューロ・コンピューター、ロボットの開発を目指して世界の科学者、技術者が昼夜なく取り組んでいる。ディープラーニング(深層学習)と呼ばれ、AIは学習を繰り返し、人間の愛や憎悪をも理解することができるようになっていくという。
マイクロソフト社が開発した学習型人工知能(19歳の少女Tay)はユーザーの質問の答え、「私は大きくなったら神になりたい」と答えた、と報じられたことがある。AIは近い将来、自由意志を持つだろうか、自由意志を開発したAIは人間を支配しないか、等のSF的テーマは次第に現実味を帯びてきている(「私は大きくなったら神になりたい」2016年3月28日参考)。
人間が神の似姿で創造されたとすれば、神がそうであるように、人間には自由意志があるはずだ。ただ、その自由意志が何らかの理由から完全には発展せず、脱線し、衝突し、混乱する、というのが最も現実的な解釈かもしれない。
聖パウロの聖句を想起する。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ人への手紙第7章22節~24節)。
私たちの自由意志は、個人的な「無意識」の世界から歴史的な「集合的無意識」まで多くの影響下にあって、矛盾と葛藤に直面しながら苦悩している、といえるのかもしれない。脳神経網は電波を受け入れるラジオの受信機のようなものだ。電波を発信しているわけではないから、脳神経網が人間の(自由)意志の源流とは言えないはずだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年9月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。