半年ほど前、バイデン大統領の残り任期が終わるまでの「レイムダック期間」は、大変な混乱期になる、という趣旨の文章を書いた。
その後、トランプ大統領が選挙で当選し、少し新しい要素が加わることになったが、基本的な事情は変わっていなかった。
地獄の「レイムダック・バイデン期」の代表例が、ガザだ。バイデン大統領は、イスラエルのネタニヤフ政権の苛烈なガザ軍事侵攻に直面し、民主党支持者層からの反発を受けながら、しかしイスラエルへの武器支援を止めることもできず、ただ事態の推移に翻弄されるだけだった。
イスラエルは、アメリカからの武器支援を後ろ盾にして、ガザ保健省発表で4万6千人とされる犠牲者(その数はもっと多いという推計もある)被害を出す苛烈な軍事作戦を続けた。
そのガザをめぐり、イスラエルとハマスの間の停戦合意が成立した。その発効は1月19日と設定された。トランプ大統領就任式の前日である。紛争当事者が、トランプ政権の成立にあわせて、停戦合意を結んだことは、明らかである。
トランプ氏は強力なイスラエル支持者として知られるが、戦争の継続は望まない、という立場をとっていた。自分が就任するまでに停戦を果たさないと、大変なことになるぞ、と威嚇する発言を繰り返していた。少なくとも、両当事者は、このトランプ氏の態度を真面目に受け止め、停戦合意をトランプ政権時代にとるべき政策の出発点にしようとしている。
停戦は大多数の諸国や国際機関が、繰り返し要請していた事柄だ。問題の解決には程遠いが、停戦が戦争継続よりも望ましいことは、言うまでもない。
ただし、停戦後のガザ情勢には、引き続き困難が予想される。ネタニヤフ政権は、停戦を望んでいたが、よりイスラエル寄りで国際社会の標準的規範を軽視してくれるトランプ政権とともに、ガザに対する厳しい占領政策を導入していくだろう。軍事侵攻の停止は、占領の終わりではない。むしろイスラエルが望む国際法に反したガザ統治が、さらに本格的に始まっていく可能性が高い。
バイデン政権は「二国家解決」にこだわっていたが、トランプ氏にそのこだわりは希薄だろう。国際平和維持部隊のガザへの展開も、トランプ政権の成立で遠のいたと考えざるを得ない。西岸のガザ化もさらに進んでいく可能性がある。
停戦は、よりマシな現実であるが、現実が非常に厳しい事情は続く。今回の停戦が、どこまで持続するか、という問いをこえて、停戦が、2023年10月7日以降のガザ危機を収束させるとは思えない。ましてパレスチナ問題の全体構造を解決するようなものではない。
「レイムダック・バイデン」期間が地獄だったのは、もう一つのアメリカの大きな関心事項であるウクライナ情勢についても同じだ。ただし流れは少し異なる。
ウクライナがロシア領クルスク州への侵攻を開始したのは8月初旬だった。バイデン政権の支援に大きく依存しているとはいえ、逆に言えば煮え切らない態度のバイデン政権にしびれを切らし、起死回生の冒険的な作戦に出たのである。
日本の軍事評論家や国際政治学者は、一斉にウクライナのクルスク侵攻を歓喜して大絶賛する態度を次々と表明したが、私はこの軍事的・政治的合理性を欠いたウクライナ政府の動きに批判的であった。
もっともザルジニー総司令官を罷免してからの戒厳令下のゼレンスキー政権の政策に、私は概して批判的だ。そのため何度かネットリンチまがいの目にも遭った。
ただ私は2022年当初から、「ロシアもウクライナも完全勝利することは著しく難しい」と言い続け、停戦に向けた考え方について語っていた。ウクライナの自衛権行使の正当性は明白だと考えるが、現実の分析は権利義務関係の認識だけで行うわけではない。2023年後半には停戦の「成熟」が訪れていた。私の態度が変わったのではない。過去1年余りのウクライナの政策行動に合理性を見出せない、という立場を、私はとっているだけである。
特にクルスク侵攻作戦以降、2023年以来の膠着状態が崩れ、ウクライナ側に不利な軍事情勢が進展した。トランプ当選によってロシア・ウクライナ戦争にも、停戦の気運が高まってきてはいるが、ロシア軍が進軍し続けている事実は、停戦の締結に、望ましくない事情である。
トランプ氏は、大統領選挙戦中に、自分が大統領になったら一日で戦争を止める、と発言して、物議を醸しだした。現在、トランプ氏は、停戦交渉に少なくとも半年は欲しいと発言し、態度を修正している。これをもってトランプ氏の無責任を指摘することもできるだろう。
ただ、同情的に言えば、1年前の膠着状態のほうが、停戦調停をしやすかっただろう。戦争の継続が、紛争当事者の双方に何ももたらさない状態においてのほうが、停戦に合理性を見出しやすいからだ。
今は、ロシア軍が占領地を拡大させ続けている状態なので、停戦によって止まる動機づけを、ロシア側が持ちにくい。ウクライナが占領したロシア領クルスク州の領地の大半はロシア軍によって奪還されているが、まだウクライナ軍はスジャというロシア側の国境の町を要塞化して抗戦している状態である。
ウクライナ政府は、ロシア側に甚大な被害を与えている、といったことを戦果として主張している。だが、ロシアの片田舎の小さな町でしかないスジャを、ウクライナがそこまでして死守することに合理的な理由はない。
ゼレンスキー統領には何か思い込みがあるようだが、ロシア人をたくさん殺している、といった発言に終始している態度には、合理的な戦略的行動の背景が見いだせない。東部戦線では着実にロシアが形成を有利に転換させて支配地を拡大させ続けているのだから、なおさらである。
ゼレンスキー大統領は、トランプ氏が豹変して、アメリカがかつてない大規模な支援ないしは直接介入によって、ロシアを駆逐する/してくれるという「夢」をまだ見続けているようだが、その可能性は乏しい。
この状況では、ロシア側は戦争を続けることに少なくとも短期的な利益が明白に存在しているので、「半年」の間に目に見えた利益の確定をするための行動をとり続けるだろう。
ロシア・ウクライナ戦争については、したがって「レイムダック・バイデン」期間の後のモラトリアム(猶予)期間のようなものが始まると想定される。
しかしトランプ氏は、仮に1日でなくても、半年くらいのうちには戦争を終わりにする、という決意は繰り返し表明しており、ほとんどアメリカ国民に対する公約のようになっている。半年の間のロシア軍の進軍を通じたロシアの追加的利益の確定を待って、停戦合意が成立することになるだろう。
日本の軍事評論家・国際政治学者の間では、ゼレンスキー大統領とともに「トランプ大統領が豹変してロシアを駆逐してくれないか」という夢を捨てきれない方がいる。だいぶ控えめな言い方で、あくまでも一つの可能性としてといった言い方になってきているが、まだ大多数の方々が「夢」を捨てきれていないようだ。
しかし、アメリカが直接介入をしてロシアを駆逐する場合を机上の空論で想定しても、半年の準備実行期間で達成するのは、著しく難しい。まして今までのような武器支援だけで、半年間で形勢を逆転させるなどということは、奇跡に近い出来事だろう。
お金さえ積み上げればロシアに勝てる、と思い込むのは、幻想である。お金の約束をすれば、次の週くらいにはお金がすべてウクライナ軍が戦場で使いこなす最新兵器に変化する、など考えるのは、単なる無知である。
ゼレンスキー大統領は、過去1年間、バイデン氏の再選でなければ、トランプ氏の豹変の可能性に希望を見出し、「全てはトランプ氏に豹変してもらいたいがゆえの行動だ」、といわんばかりの合理性に欠けた政策をとってきた。しかしそれも、トランプ氏就任後の数週間で、霧消していくことになるだろう。
1日でなくて半年だとしても、トランプ政権が停戦調停に向けて強く動き出すのは、確定的な路線だろう。アメリカには、漠然と現状を続けていけるほどの余裕はない。非常に残念だが、モラトリアム期間は、ウクライナに不利な現実を増幅させる期間となる可能性が高い。
ウクライナ政府は、25歳以下の動員を頑なに拒絶しているが、停戦までの残り時間を考えると、この問題の意味は、ほぼ時間切れだろう。ウクライナは、2022年の全面侵攻前から顕著な人口減少の傾向を見せていたが、全面侵攻後にさらに人口が激減した。欧州諸国にいる800万人とも言われる難民のうち、若年層を抱えた女性層などの多くは、帰国を渋る可能性が高い。長期にわたるEU圏内での生活で、若年層は相当に現地社会に溶け込んでいるはずだ。
政策介入でEU側が強く難民を押し出したり、EU市民権獲得の可能性を排除したりするのでなければ、停戦になれば大挙して欧州諸国から難民が帰ってくる、とは想像しにくい。長期化した戦争の代償は広い範囲で及び、復興の行方には、困難を予想せざるをえない。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。