「致誠日誌」は杉浦重剛が東宮御学問所御用掛を拝命した1914年5月15日から日々欠かさず記した「日誌」である。
皇太子への進講は21年2月に終了するが、18年4月の婚約と同時に初等科を退学した良子女王への進講がなお約3年間続いたため、「日誌」は22年6月20日まで記された。それは皇太子と女王への足掛け9年間に亘る進講準備の記録である。
このうち14年5月から12月までと15年1月から3月までの約1年分の「日誌」が、「昭和天皇の学ばれた『倫理』御進講草案抄」に掲載されているので、杉浦が如何に進講準備に粉骨砕身注力し、工夫に腐心したかを知るべく、その全部を出来るだけ原文通りに掲げてみる。
※()は解説した所功氏の補足、【】は筆者のコメント、太字は筆者)。
(前回:昭和百年の礎:杉浦重剛のご進講「考」④:「致誠日誌」を読む(2))
大正四年乙卯(1915年)
1月
2日 夜、山田新一郎氏著の『神社祭祀の意義』なる論文を熟読す。
【山田新一郎(1864年生)は日本の神職、教育者、内務官僚で、鳥取県知事も務めた。称好塾に籍を置いた】
7日 前日、本年御進講の準備に着手。猪狩・山田両氏に談ず。有賀氏の祭祀論を読む。
8日 寒中御機嫌伺の為め参内。夜、準備。 9日 夜、猪狩・中村両氏と商量す。
11日 沼津御用邸東付属邸に於て、御始業式後挙行。
12日 前同断に於て、第二十七回(崇倹か)御進講。山根、土屋、小笠原、亀井諸氏、参列。
13日 浜尾氏の病を訪し、且つ相談する所あり。
14日 夜、(教育)勅語研究。 15日 猪狩氏に整理を托す。
16日 教習科茶話会に臨み、参考を求む。夜、中村氏と商量す。
17日 松平直亮伯来訪。談ずる所あり。光雲寺に於て、猪狩・中村二氏と商量。帰宅後、猶研究。
19日 第二十八回(教育勅語か)御進講。入江子(爵)、小笠原、亀井外両氏、参列。後、入江子に談ずる所あり。
2月
16日 第二十九回(尚武か)御進講。小笠原子、外一両氏、参列。後、入江子に談ずる所あり。
18日 猪狩氏に托す所あり。 19日 勅語準備。水原・石川三両氏と商量す。
20日 夜、中村氏と(教育)勅語の準備。 21日 『勅語衍義』を読む。
23日 第三十回(教育勅語か)御進講。山根、小笠原、外一氏、参列。
24日 中村氏に整理を托す。 25日 永原氏より『勅語大全』の話。 26日 猪狩氏と商量。
3月
2日 第三十一回(教育勅語か)御進講。東郷、小笠原、山根、外一両氏、参列。従来の御進講に関する御感想の一二を御筆記遊ばさる。捧読。感激無量。
4日 猪狩氏に整理を托す。夜、勅語研究。
5日 中村氏と商量す。伊藤(伊沢修二か)氏を訪ひ、『勅諭(聖諭)大全』を読む。
6日 伊沢氏、『勅諭(聖諭)大全』首巻を贈らる。
7日 光雲寺に於て、猪狩・中村両氏と研究す。
9日 第三十二回(教育勅語か)御進講。小笠原、山根、外一両氏、参列。土屋侍従と談ず。
10/11/12/13日 猪狩・中村両氏と共に準備に従事。 13日 夜、尚武に関し、研究す。
14日 中村氏、独乙書の抄録を寄せらる。白鳥氏を訪ひ、談ずる所あり。
16日 午前、浜尾氏と会談す。第三十三回御進講。浜尾、小笠原、山根、外一両氏、参列。
17日 猪狩氏に託する所あり。伊沢氏より『勅諭大全』二冊を贈らる。夜、研究に従事す。
19日 伊沢、浜尾両氏を訪ふ。午後、東京駅に於て、御還幸啓行。奉迎。入江氏に逢ふ。夜、更に『勅諭大全』を渉猟す。 21日 夜、中村氏と勅語末段、研究。
23日 第三十四回「教育勅語」御進講。本学年最終にて、勅語を了る。入江子に談ずる所あり。
24日 夜、中村氏に整理を托す。 26日 中村氏、「勅語講義録」写を持来。
27日 光雲寺に於て、猪狩・中村両氏と、次学年課程に関し、大に討議す。猪狩氏より原稿領収。
28日 金子有道氏と談ずる所あり。
30日 午前九時、御修了式に参列。午前十一時、酒饌の賜あり。正午、入江子と談ずる所あり。
■
以上が1914年5月から翌15年3月までの「日誌」である。ここで、杉浦は14年11月の第十九回「納諫」以降、翌年3月23日の第三十四回「教育勅語」を除き、進講の題目を記していない。そこで解説の所功氏が(教育勅語か)や(尚武か)などと題目を推測している。教育勅語の11回分は所氏の推測が正しいとして、その外の題目のヒントは、本稿②に記した、猪狩史山の記述である。
そこで所氏が補足した2月16日「第二十九回(尚武か)御進講」に関連して、3月13日の「日誌」には「夜、尚武に関し、研究す」と記されている。既に進講済みの題目をひと月後に研究することは先ずあり得ないから、所氏に何らか錯誤があるように思われる。
猪狩の記した題目、納諫、威重、大量、敬神、明智、崇倹、尚武を、第十九回「納諫」以降の教育勅語以外の題目に順に突合せると、第二十一回(威重か⇒威重)、第二十三回(敬神か⇒大量)、第二十五回(明智か⇒敬神)、第二十七回(崇倹か⇒明智)、第二十九回(尚武か⇒崇倹)、第三十三回(記述なし⇒尚武)とピタリと当て嵌まる。
さて、この「致誠を読む」の稿では、杉浦が相談したり、参考書を借りたり、参考材料を贈られたりしている人物のうち調べが付く者について、【】でその素性を補足した。多方面に亘って長年研鑽を積み、自身博覧強記の杉浦をしてなお、ここに記したほぼ2年間だけみても、寸暇を惜しまず参考資料や書籍当り、また斯界の碩学に教えを請い、それを称好塾の子弟(といってもみな一角の教育者や専門家ら)と光雲寺に集って研究し商量する、杉浦の没頭振りを紹介するためである。
最後に「日誌」に度々名前が出てくる「光雲寺」と中村安之助氏につき、猪狩氏が「回想本」に一項設けているので紹介する。
光雲寺は小石川伝通院前にあり、杉浦が英国留学から帰国した後に寄寓した庵が光雲寺の所有であった関係で、以来しばしば仏事などを営んでいたところ、御学問所御用掛を拝命した以降、研究場所の必要が生じたため、光雲寺本堂裏の奥座敷6畳二間借り受けたのである。
ここに杉浦を補佐した猪狩や中村ら子弟数名が入れ代わり立ち代わり集って、杉浦の進講草案作成に様々関わった。会合は朝9時に始まり、「魚武」が仕出した昼食をとって3時頃まで続いた。「魚武」は杉浦の同志であった故小村寿太郎宅に、かつて3年間弁当を運び、一度も催促しなかったというので、杉浦はこれを徳としていた。後に杉浦は、伝通院にほど近い小石川久堅町に自宅兼称好塾を設けた。
中村安之助は帝大で倫理学を先行した文学博士で、柔道の有段者であった。が、進講が始まって3年目に睾丸結核なる難病に罹り、一時期治癒したとして光雲寺に復帰したものの、3年経って逝去したのだった。1919年10月6日の「致誠日誌」には以下のように記されている。猪狩は「言葉は短いけれども、先生の御心中は充分押しはかることが出来るのである」とした。
参殿。第四回御進講。東郷、小笠原、壬生、高田、加藤諸氏参列。学校に於て、二三の中学校長を会し、参考談を聞く。(此日、中村安之助の訃に接す。遺憾千万なり)
(その⑥:教育勅語(1)に続く)
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