
いよいよ8月で、昭和史と「歴史の教訓」の季節性インフレがピークとなる。そんな時こそ、メディア上のニセモノを警戒しなくてはならない。

アゴラで野口和彦氏(国際政治学)が、興味深い記事を書いていた。「歴史に学んで」なにかを決断するとき、人は過去の史実Aが現状Bと「似ているから」といったアナロジーを用いるが、そのAとBとの並べ方が適切でない場合、かえって大惨事を招いてしまう。
とはいえ、過去の参照を「禁じる」わけにもいかない。むしろその大失敗Cが、やがては顧みられる過去の史実となる。ぼくらにできるのは、なるべく歴史の思い出し方のバリエーションを多くして、偏ったアナロジーが言論を席巻しないよう努めることだけだろう。

ウクライナでの西側の失敗を覆い隠せない今日、まちがったアナロジーとしてすっかり評判が悪いのが、ミュンヘン会談の教訓(1938年)だ。ヒトラーとの妥協が彼をつけ上がらせたとして「宥和外交、ダメ、ゼッタイ」の根拠になり、「プーチンと交渉するな」と説くために引かれた。
宥和政策の当否はともかく、そもそもミュンヘン会談自体に対して誤解が多い。ナチスの勢いに「ビビッて日和った」みたいに単純な話でなかったことは、篠田英朗氏も書いている。

野口氏も触れるが、この「歴史の誤用」という現象に最初に注目したのは、外交史家アーネスト・メイの『歴史の教訓』(1973年)である。米軍でも戦史を編纂したメイは、眼前のベトナム戦争敗北の原因を探る中で、この着想に達した。
日本では、加藤陽子氏のベストセラー『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2009年)の序章に引かれたことで、知った人が多い(ぼく自身もそうだ)。たとえば、こんな調子である。

メイ先生のいいたいことをはっきりいってしまえば、政府を引っぱるような政策形成者は、歴史をたくさん勉強しなさいね、ということですね。
メイ先生は、政府の意思決定に携わる人々が、きちんと自分の話を聞くように、第二世界大戦以前の時期に、アメリカは歴史をいかに誤用したか、冷戦期に入ってどれだけ誤用したか、朝鮮戦争の時期にどれだけ誤用したか、ベトナムの体験でどれだけ誤用したか、それを実に面白く詳細に明らかにしました。
新潮文庫版、87頁
(強調と改行は引用者)
この文章自体はまちがっていないが、にもかかわらず、著者はまちがっている。読んでわかるとおり、まちがえるのは政治家であり、歴史学の「先生」はまちがえない、だから政治家は「先生」に従うべきだという、立証できない事実に基づく無根拠な価値観が、前提とされているからだ。
この発想が、自身を学術会議の会員に任命しなかった「政府を叱る」という、近年の加藤氏の言動の基礎にあることは確かだろう。だがその結果、得られたものは、なにもなかった。

どうしてか。政治家と同じかそれ以上に、歴史学の「先生」もまた歴史を誤用するからである。
6月、国民の無関心と失笑の内に終わった日本学術会議騒動をめぐる、最大の謎は、なぜ法案の阻止も修正もほぼ不可能となった参議院での審議の段階で、(加藤氏を含む)抗議行動が活発化したかだ。そこにはおそらく、戦後80年を飾るに相応しい(?)、 歴史の誤用があったと思う。

戦後の市民運動の頂点とされる、60年安保闘争のピークは、5月20日の「衆院通過」の後だった。強行採決どころか、警官隊を国会に投入して野党議員の座り込みを除去し、実質は自民党だけの本会議での可決成立である。

警官隊に抱えられて排除される
社会党・江田三郎書記長
(NHKアーカイブスの動画より)
これは条約の可否を越えて「民主主義の危機だ」ということで、空前絶後の反対運動が起きたのだが、気をつけるべき点がある。条約の批准は、憲法が衆議院の優越を定める事項の1つなので(61条)、仮に参議院では審議や採決が行われなくても、30日後に「自然成立」する。
つまり政府としては30日間をしのげば、最低限の目標には達する。それもあって国民規模の反対の声は、参議院での「採決なし」と、アイゼンハワー米大統領の来日中止を勝ち取った。どの程度評価するかはともかくとして、歴史書に残せるなにかは得たわけである。

今年、学術会議を法人化する法案が衆院を通過したのも5月半ばだった。そこから「危機感を募らせて立ち上がる!」という演出は、60年安保をなぞったとも言える。で、それは正しかったか。
今回の法案は通常の法律なので、衆院から回ってくれば、参院でもふつうに採決する。まして当時は参院では与党が過半数・衆院のみ少数与党なのだから、参院の審議が始まってから(院外で)座り込んでも意味がない――のだが、歴史学者は「デートもできない警職法」(1958年)とか、謎すぎる歴史の誤用を楽しそうに語っていた。
それにしても、不思議である。上記の動画(ヘッダーも)を見てほしい。
60年安保は言うに及ばず、平成の晩期に「国会前デモ」の流れを生んだ2011年からの脱原発運動、15年のSEALDsと比べても、この問題で集まった人数はびっくりするほど少ない。主に高齢者が、歩道に沿って並んで聞いてるだけで、デモというより屋外カラオケだ。
もし歴史を覚えていたらこのとき、過去の事例と比べてしまって、つらくてやり切れないんじゃないかと思う。集まりの少なさに「わっと泣き出す」のがふつうの反応で、にこにこマイクを手に演説するなんて、ぼくならとてもできない。
それでも平気で「運動」した気持ちになれる人は、歴史中枢とも言うべき脳内で過去の記憶を司る部分を、セルフ・ロボトミーで切除しているのかなと思う。そんな人がいてもいいけど、同じ人が歴史の専門家を名乗るのは、単に矛盾だ。
2020年5月の上記の記事以来、何度も述べてきたが、新型コロナ禍では歴史学者ほど「歴史の誤用」を繰り返した。抗生物質やワクチンはむろん、上下の水道さえ十分になかった幕末のコレラや大正のスペイン風邪を連想して怖がるのが、「歴史の教訓」だとする議論が平気であった。
さすがに挽回しないとヤバい、と気づいた歴史学者が走ったのが、20年10月からの「学術会議の任命拒否に抗議する」運動であり、コケた後もなお私って意識高い感を求める一部が乗ったのが、21年4月の「炎上した歴史学者をみんなで叩こうぜ」署名だった。周知のとおり、ともに遠からず、笑いものになって終わっている。

いま必要なのは、信賞必罰である。
歴史を適切に利用し、この間生じた問題のすべてに正しく対応してきた者が、讃えられなければならない。逆に「歴史の誤用」を犯した者は、それが歴史の専門家であればあるほど、責任を問われなければならない。
「コロナではまちがえました」。その程度の反省もできないまま、座り込みやネット署名の代償行動でごまかし続ける歴史学者を、ぼくたちはもっと侮蔑してゆこう。彼らが悔い改めるか、逆にすべての権威と信用を失うとき、初めて歴史はこの社会に帰ってくる。それは、誤用ではない。
参考記事:



編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年8月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。






