公立の復権の象徴となった京都市立 堀川高校の奇跡

婦人公論の電子版と、それが転載されたYahoo!Newsで『日本の名門高校 – あの伝統校から注目の新勢力まで』(ワニブックス)の内容に少し手を入れて連載しているが、今回は、2000年にはゼロだった京都大学合格者を2004年には40名に増やした京都市立堀川高校を取り上げる。

【参照リンク】<堀川の奇跡>で躍進した「堀川高校」は、国公立大学の現役合格者が前年から一気に100人も増加!立役者・荒瀬克己が語った<2つの決め手>とは Yahoo!News

戦前の京都では、前回取り上げた京都一中(洛北高校)や府一(女学校・鴨沂高校)など、全国的に知られた公立名門中学や女学校があった。

戦後の京都府では、昭和25年(1950年)から「総合選抜」という入試制度が行われ(厳密には最初は小学区・1967年からは総合選抜)、公立高校志願者は自分の住む学区内の近隣の高校にしか行けなくなった。

小学区の時は、たとえば洛北とか鴨沂、あるいは紫野あたりはインテリが多く住む地域なので京都大学合格者がそこそこいたが、総合選抜になると突出した進学校はなくなった。

その影響で多くの進学校が凋落していったが、最初のころは旧一中だった洛北高校、「府一」だった鴨沂高校といった名門高校が優位を占めていた。

たとえば、昭和32年(1957年)には、京都大学の合格者数は洛北高校が53名で1位、鴨沂高校が37名で2位、そのほかでも朱雀、紫野、山城の各高校が20名を超えていた。しかし、昭和40年(1965年)になると、私立の洛星高校が3位となる一方、公立では鴨沂高校の13位が最高となった。そして、総合選抜が定着した昭和50年(1975年)には、上位20位に公立高校の名前を見ることはできなくなり、公立高校から京都大学に合格するとしても現役はほとんどいなくなった。

この制度を導入した革新系知事の蜷川虎三は、「15の春を泣かすな」といったが、その代わりに「18の春を泣かす」ことになったのである。

しかし、京都では平成25年(2013年)に総合選抜制度が廃止され、その後の全国的な公立高校復興の流れのなかで、まず市立高校の改革が図られ、堀川高校が躍進した。堀川はもともと市立第一高女の系統を引く。

京都の公立改革は京都府立でなく京都市立から始まったのは、高校の数が少なかったため、複雑な利害調整の必要が少なかったからである。

堀川高校は、小学区制で入学した1970年ごろまでは都心の商業地を学区にしていたので、洛北などほどではないが京都大学合格者は2桁を確保していたが、その後はほとんどの年でゼロだった。

京都市立堀川高校 Wikipediaより

堀川高校では、平成11年(1999年)の校舎建て替えと同時に「人間探究科」「自然探究科」が設立され、探究科1期生が卒業した平成14年(2002年)には、国公立大学への現役合格者数を前年の6名から106名に増やした。そのうち京都大学は6名だったが、翌年は11名、2年後には40名となった。教頭・校長として指揮を執り、「堀川の奇跡」の立役者といわれる荒瀬克己は、その決め手として「批判的な評価も多かった公立高校が、教職員の頑張り次第で変われると認めてもらえたこと」と「『課題探究型』の学習が、大学入試と矛盾しないものだと理解してもらえたこと」の2つを挙げている。

2026年度入試では、東京大学に4名、京都大学に53名が合格で6位。京都大学合格者数のベスト10には常にランクインしている。近年は少ないが、一時期東京大学の合格者が多かった時期もあり、これは校長の方針でかなり影響を受ける。

新しい体制になってからの卒業生に有名人はまだいないが、以前の卒業生には、門川大作(元京都市長)、市田ひろみ(服飾評論家)、藤田まこと(俳優)、堀田力(東京地検検事。ロッキード事件を捜査)、横田早紀江(拉致被害者の母)がいる。

なお、平成9年(1997年)まで本校には音楽科があった(現在の京都市立京都堀川音楽高等学校)。葉加瀬太郎(バイオリニスト)、佐渡裕(指揮者)はここの出身である。

【目次】
はじめに 伝統の名門校から躍進する注目校まで
第1章 東京・神奈川の名門高校
第2章 関西の名門高校
第3章 中部の名門高校
第4章 東日本の名門高校
第5章 西日本の名門高校

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