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社長室に銀行員が来る日は、不思議な緊張感が漂う。
自分のオフィスであるにもかかわらず、社長は少し改まった表情をする。革張りの椅子に深く座り直し、応接テーブルを挟んで向かいの銀行員を迎える。ここは確かに社長のホームグラウンドだ。しかし、この部屋で本音が語られることは、ほとんどない。
なぜか。その問いに答えるために、ある午後の場面を描いてみたい。
「お変わりないですか」から始まる30分間
製造業を営む中堅企業の社長室。窓の外には自社の工場が見える。
担当を引き継いで半年が経つ銀行の渉外担当者が、四半期に一度の定期訪問に来た。「いつもお世話になっております」という言葉とともに、いつもの椅子に座る。
「最近はいかがですか」
社長は少し間を置いた。本当のことを言えば、こうなる。
——売上はこの1年で15%伸びた。しかし預金残高は半年前より確実に減っている。運転資金の融資はこの3年で3回受けた。そのたびに「これで楽になる」と思ったが、半年もすれば同じ状態に戻る。税理士に聞いたら「売上が伸びているので運転資金が増えているんでしょう」と言われたが、それがどういう意味なのかよくわからなかった。
毎月の試算表を見ても、利益は出ている。なのにお金が増えない。また貸してくれとは言いづらい。しかし何が問題なのかも、自分ではわからない——。
しかし社長の口から出た言葉は、こうだった。
「おかげさまで、順調ですよ」
銀行員が「聞きにくること」の正体
なぜ社長は本音を言わなかったのか。弱みを見せると融資に影響すると思っているからだ、と言う人がいる。それは半分正しい。しかし半分は違う。
もう半分の理由はこうだ。社長自身が、自分の会社の本当の状態を言語化できていなかった。
「預金が減っているのに、なぜか説明できない」。その状態で銀行員を前にしたとき、人は本能的に防御に入る。説明できないことを口にすれば、それが問題として浮上する。しかも運転資金融資はすでに3回受けている。また同じ話をすれば、「またか」と思われるかもしれない。問題が解決していないことを認めることになる。黙っていれば、今日この30分は穏やかに終わる。
一方、銀行員の側で何が起きていたか。
渉外担当者は頭の中で算段している。この会社、売上は好調だと言っている。追加の運転資金融資を提案できないか。設備の更新はどうか。保険の見直しは——。
この訪問の目的は、提案の糸口を見つけることだ。社長の経営をどう改善するかを考えにきているわけではない。
二人は同じ部屋にいる。しかし、まったく別の空間にいる。
数字の背後にあるものを、誰も読もうとしない
その会社の実態はこうだった。
売上が15%伸びた結果、売掛金と在庫が膨らんでいた。それ以外にも、売上を支えるための人件費が増え、販売や回収にまつわるコストも増えている。代金を回収する前に、仕入れと人件費のための現金が出ていく。これが繰り返されるたびに、利益は出ているのに手元の現金は減っていく。売上増加が経常運転資金を増やし、資金繰りを圧迫していたのだ。
これは珍しい話ではない。成長している会社ほど陥りやすい構造的な問題だ。しかしこの社長は、その構造を誰からも教わっていなかった。
税理士は「運転資金が増えている」と言った。それは正しい。しかし「だからどうすればいいのか」までは踏み込まなかった。銀行は3回、運転資金融資に応じた。しかし融資は問題を解決しなかった。問題の構造に手をつけないまま資金を注いでも、同じ穴から同じだけ漏れ続けるだけだ。
それだけではない。融資を重ねるたびに、毎月の元本返済額は増えていく。金利の支払いも増える。売上が伸び、利益が出ているはずなのに、通帳残高の減るスピードはむしろ速くなっている。社長はその感覚を持ちながらも、なぜそうなるのかを説明できない。説明できないから、銀行員に問えない。問えないから、また同じ30分が繰り返される。
こうして、数字の背後にある「なぜ」は、誰にも問われないまま時間が過ぎた。
前回こう書いた。社長は夢を語り、銀行は指標を追う——と。今回の場面は少し違う。社長は夢さえ語らなかった。語れなかったのではなく、本当の問いを持てなかったのだ。自分の会社に何が起きているかを、言葉にできなかった。
「順調です」の裏側にある沈黙
30分の面談が終わり、銀行員は「何かあればいつでもご連絡ください」と言って社長室を出た。社長は見送りながら、また窓の外の工場に目を向けた。
売上は伸びている。しかし預金は減っている。来月の支払いは大丈夫か——。
この問いは、今日も誰にも届かなかった。
対話の不在とは、口を閉じることではない。問いを持てないまま、言葉だけが行き交うことだ。
銀行員は提案のチャンスを逃さないように訓練されている。しかし社長が本当に求めているのは、提案ではない。「うちの会社に何が起きているのか、教えてくれ」という問いへの応答だ。
この断絶は、どちらかが悪意を持っているから生まれるのではない。構造として生まれている。銀行員は提案のチャンスを逃さないように訓練され、社長は弱みを見せないように自分を守る。二人がそれぞれの役割を誠実に演じるほど、本当の対話から遠ざかる。
問いを持てる社長だけが、次の扉を開く
あの場面で社長に必要だったのは、何だったか。
「売上が伸びているのに預金が減るのはなぜか」という問いそのものだ。その問いを自分の言葉で持てていれば、銀行員への答えは変わっていた。「順調ですが、一点確認したいことがあって」という入り口が生まれていた。
しかし問いは、知識なしには生まれない。売上増加が経常運転資金を増やし資金繰りを圧迫する構造を知らなければ、「なぜ」という問いすら立てられない。見えていないものは、問えない。
ではその知識は、どこで、どのように手に入るのか。
銀行員は教えない。教えることが仕事ではないからだ。税理士は正しいことを言う。しかし「だからどうする」を示すことは少ない。
結局のところ、社長が自分の会社の構造を読む力を持つまで、あの社長室の30分は繰り返される。「順調です」という言葉とともに、誰にも届かない問いが積み上がっていく。
次回は、その力をどこから手に入れるか——事業計画が、その入り口になる理由を論じる。







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