
斯くて行われた「2+2」の共同発表には、「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)最終報告の着実な実施が重要である」と記された。直後に訪米した額賀福志郎自民党安全保障調査会長(※98年7月~98年11月と05年10月~06年9月に防衛庁長官)に対し、米側は「普天間移設先の代替案が出れば、積極的に検討する」と伝えていた。
「シュワブ陸上案」(05年4月)から「名護ライト案」(05年8月)へ
「2+2」と額賀の訪米報告を受けて、小泉総理は大野・町村・細田に三閣僚会議の開催を指示、05年4月20日に以下の5案が纏められた。大野から「君に対する不信感があるうちは、この件から外れてくれ」と告げられていた守屋は会議に出ていなかったが、5つ目の「シュワブ陸上案」は彼が腹案にしていたものだった。
- 現行案(辺野古沖を埋め立てて軍民共用空港を建設)
- 嘉手納統合案(普天間基地の機能を嘉手納基地に移す)
- 嘉手納統合+普天間併用(普天間に米軍の宿舎・住宅などを残す)
- 伊江島移設案
- シュワブ陸上案
6月4日にシンガポールで開かれた各国の安全保障担当の首脳会議に参加した大野は、ラムズフェルドとローレス国防副次官(東アジア・太平洋担当)との会議で普天間移設と在日米軍再編について話し合った。ここで米側から普天間の移転先として以下の3案が示された。何れも埋め立てを伴わない案である。
- シュワブ陸上案
- 嘉手納弾薬庫案
- 読谷補助飛行場案
この席でローレスは「Henoko is dead(辺野古案は消えた)」と述べた。守屋は、この時点で4月の三閣僚会議の「1. 案」、即ち、埋め立てを伴う「稲嶺・軍民両用空港案」は「消えたといってもよかった」とし、彼が「シュワブ陸上案」を好ましく思う契機となったある沖縄首長の話をこう記している。
既存の基地の中に作れば、基地の新設を認めないという沖縄の県是は守られる。また基地の中に無断立ち入りすると法律で罰せられることになっており、いくら反対している住民でも、基地に入って工事を妨害することは出来ない。
ところが8月1日に再来日したローレスが、「名護ライト案」を持ち出した。驚くことに、それは辺野古沖の浅瀬を大きく埋め立てて1500mの滑走路を作るという案で、「沖縄がこれなら賛成だと言っている」と主張する。守屋の知る限りその案は、その2カ月前に自衛隊の民間親睦団体「沖縄県防衛協会」の北部支部が決議したもので、同支部の会員は大半が北部の建築業者だった。
「名護ライト案」には前記団体の北部支部長仲泊弘次が絡んでした。仲泊は名護市で総合建設業「東開発」を営む沖縄の有力者で、建設業の他に生コン工場、石油・土砂販売、不動産業、ボウリング場、宝くじ販売などを手広く展開していた。守屋は部下から、訪米した仲泊が沖縄在勤経験のある国防総省関係者にこの案を説明し、「理解が得られた」と公言している、との報告を受けていた。
斯くて普天間の移設先は、橋本総理が提案した撤去可能な「フロート飛行場案」から、辺野古沖を埋め立てる稲嶺知事の「軍民共用空港案」を経て、一旦は埋め立てを伴わず反対運動もやり難い「シュワブ陸上案」に落ち着くかと思いきや、再び埋め立てを伴う「名護ライト案」が浮上したのである。
「名護ライト案」から「L字案」へ
以降の「L字案」「X字案」「V字案」は、面積の差こそあれどれも辺野古の海を埋め立てる案である。そこで繰り広げられたのは、地元の池子弾薬庫跡地利用で環境団体の反対に遭った経験から「環境という言葉に国民は弱い。環境派を相手に戦っては駄目だ」として、埋め立て極小化を志向する小泉を後ろ盾とする守屋と、国と県の様々な関係者との埋め立て面積を巡る攻防、と言って良い。
守屋は「名護ライト案」の対案として、キャンプ・シュワブの老朽化した宿営施設を山側に新設して跡地を滑走路とし、不足分をサンゴ礁のない大浦湾を埋め立てて1800mを確保する「宿営地案」(後の「L字案」)を考案する。だが、この大浦湾埋め立てが今日の「Ⅴ字案」に継承され、海底の軟弱地盤のために時間もコストも余分に要する事態を招くことになる。
さて、小泉の池子での経験譚は「宿営地案」を説明した10月12日のことで、小泉は「金は多くかかるが、埋め立てよりいい」「自民党で反対している奴の名前とその理由が判ったら教えてくれ」と言う。守屋が数名を挙げると「何だ、俺の身内じゃないか」と笑った。庁に戻って大野に小泉発言を伝えると、「元気が出てくる」「町村・細田は、だから間違っているんだ」とご機嫌だった。守屋はこの二人の名を挙げたのだろう。
同日夕方、山崎拓元副総裁の事務所を訪ねた守屋は、山崎から「昨日、民主党の前原誠司代表が来て案を置いていった」「その案は東村長も地元も了解したものだと言うんだ」「守屋次官はどうしてこの案を呑まないんですかねえ」とも言った、と聞かされた。その案は滑走路が「宿営地案」より100m浅瀬に出ている分「地元の建築業者が儲かる一方、環境派の反対を受けて建設が難しくなる」と守屋は記している。
米国が「名護ライト案」を諦めて「宿営地案」を受け入れた経緯はこうだ。10月13日10時半にホテルでローレスと会うことになっていた守屋は、前夜に前原から電話で「宿営地案であれば民主党は受け入れる」と告げられていた。すると額賀から電話が入り、「アメリカは宿営地案を呑まない、名護ライト案でいくと言っている。ローレスの決意は固い」という。額賀は前夜、ローレスと会っていた。
果たして、ローレスは「(宿営地案を)検討する余地などない」とにべもない。ローレスが後で山崎と会うというので、守屋はホテルに残った。12時過ぎに山崎の部屋へ行くと「繋いだよ、それにしてもローレスは嫌な奴だなあ。・・君の悪口ばかり言っていた」と言い、ローレスを「宿営地案も貴方のアイデアということにし、総理が来年度予算で米軍再編を考えているから、両方を貴方の手柄にしたらいい」と言って説得したと述べた。
午後2時半過ぎ山崎から守屋に、ローレスの「宿営地案に反対だ」発言を、額賀がマスコミに流していると電話が入った。報告した大野は「詰めの話をなぜ話すのか」と不快感を示し、深山総理秘書官からも総理が額賀の「記者レク」に怒っていると連絡が来た。額賀はその際、新日鉄のアイデアを自らの案だとして「杭打ち案」を披瀝したが、それは橋本時代に検討され、消えた案だった。
10月25日は午後10時から例の三閣僚とローレスらとの会談がセットされていた。大野は、町村と細田から「誰も防衛庁の案なんかに賛成していない。内閣府も外務省も反対しているのに、そんなに頑張るなら大野さん一人で行って下さい」と言われ、一人で「宿営地案」を主張して物別れになった。
翌26日朝、大野は「2+2」を優先して普天間を先延ばしすると言い、「山崎さんはもう引き時だという判断だ。名護ライト案で良いんじゃないかと言っている」と述べた。守屋はこれを総理に報告すべく11時にアポを取った。が、官邸で飯島に「物別れになった」と言いかけるなり、彼は「いや、官邸に入ってきた情報と違うよ」「たった今、大使館のメザーブ公使からの連絡で、日本案で良いと言うんだ。防衛庁は良くやったと今、総理と話していたところだ」と言う。
同じ頃、大古防衛施設局長にも「ローレスが防衛庁案を呑むと言っている」との電話が米側から入っていた。05年12月26日の『朝日』夕刊の見出しには、「普天間移設 辺野古崎で合意 海上突き出し型に」との文字が躍った。この日から、「宿営地案」は「L字案」と呼ばれることになる。
「L字案」から「X字案」、そして「V字案」へ
明けて06年2月、守屋がかつて防衛政策課長だった頃に、細川内閣が冷戦後の防衛力の在り方を検討すべく始めた「防衛問題懇談会」の委員で、経団連副会長や政府委員を歴任し、沖縄問題にも詳しい諸井虔が「五月会」で、守屋にこう言った。
政府は沖縄に悪い癖を付けてしまったね。米軍基地の返還など進まなくてもカネをやるという、悪い癖を付けてしまったんだよ。もうそれでは立ち行かないと沖縄の目を覚まさせるようなことを、国はやらなければ駄目だよ。
「五月会」は太平洋セメント相談役だった諸井が24年に発案した防衛庁の課長直前の若手勉強会である。守屋は旧知の諸井に「L字案」への協力を沖縄にどう取り付けるか、しばしば相談していたのだった。諸井はこの年の12月に78歳で永眠した。
翌22日、深山総理秘書官から「沖縄選出の自民党国会議員5人(「五ノ日の会」)が明日、官邸に総理を訪ね、政府案反対を陳情する」との連絡が入った。「石破先生も付き添う」とのことだった。追って山崎からも「沖縄の仲泊さんが事務所に来たよ。辺野古の修正案を持ってね」との連絡がきた。前述した様にその修正案は、昨年訪米した仲泊が国防総省関係者に見せた「名護ライト案」類似の案だった。
(③につづく)







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