
沖縄県名護市辺野古崎沖で3月16日、ヘリ基地反対協議会(「反対協」)が運営する抗議船2隻が転覆、乗船していた京都同志社国際高校の修学旅行生18人と乗組員3人全員が海に投げ出され、生徒一人と船長一人が死亡するという痛ましい事故が起きた。「反対協」が生徒を案内した辺野古のキャンプ・シュワブは、「世界一危険」とされる在沖縄米軍の普天間飛行場の移転先として、2010年に日米政府が合意した場所である。
「『普天間』交渉秘録」(「秘録」)の著者守屋武昌は44年に生まれ、東北大法学部から71年に防衛庁入庁、内閣審議官だった96年から防衛事務次官として退職する07年までの10年余り普天間移転交渉に関わった。小泉純一郎元総理(01年4月~06年9月)の父純也が60年代半ばに長官だった防衛庁は後に省となり、現防衛大臣は孫の進次郎だ。
守屋は防衛省初代事務次官を退職直後、収賄容疑で逮捕・服役した。刑期を終えた守屋は、当時の秘書が日々記した行動メモを元に綴った日記を頼りに「秘録」を書き下ろし、10年7月に上梓した。
実は、筆者が本欄に記事を寄せ始めたのは、19年2月に本欄の記事募集に応じ、基地移転の県民投票について書いたのがきっかけだった。移転交渉に深く踏み込んだ内容ではなく、国の専権事項である外交安保の問題に県民投票は馴染まない、との主旨を論じた。普天間基地とキャンプシュワブのある宜野湾市と名護市なら意味があろうが、その時点で両市とも移転に賛成だったことも動機になった。

辺野古移転に係る筆者の知識は当時から、95年の米兵による少女暴行事件で基地反対運動が再燃し、橋本龍太郎総理がフロート式飛行場を辺野古沖に浮かべる案を出したことや、民主党鳩山由紀夫総理が、オバマ米大統領に「最低でも県外」「Trust me」などと大見得を切った挙げ句、「学べば学ぶほど難しい」と投げ出し、米紙で「Loopy」呼ばわりされたことなどの域を出ていない。そこで、今般の事故を機に「秘録」で「辺野古」を「学ぼう」という訳である。
「秘録」は守屋が退職した10年までの出来事を記しているが、本稿では06年5月1日にワシントンで開かれた「2+2」で、「(在日米軍」再編実施のためのロードマップ」と共に、普天間飛行場代替施設としていわゆる辺野古「V字案」が改めて明記された時点辺りまでの経緯に絞り纏めている。以下の(※)は筆者補足。また本稿は敬称を略している。
「橋本・フロート案」(96年4月)から「稲嶺・軍民両用空港案」(98年12月)へ
何より「秘録」の興味深い点は、実名で登場する国・県・米国の政治家や役人や関係者のかなり生々しい発言が「」書きでそのまま記されていること。勿論、それらは守屋の記憶の範囲だから、その中身が事実かどうかは定かでない。が、「秘録」の記述によって守屋が名誉毀損で訴えられた話は報じられていない様なので、概ね事実と見て良いのではなかろうか。
少女暴行事件を契機に設置された「SACO:Special Action Committee on Okinawa」で協議を重ねた日米は96年4月、橋本総理(※96年1月~01年4月)とモンデール大使の間で普天間飛行場の返還が合意され、12月の最終報告書で県内11施設の返還も決まった。普天間は「海上施設の建設を追求し、ヘリコプター運用機能の殆どを吸収」し、「今後、五年乃至七年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後」に返還すると定められた。
ところが合意から1年10ヶ月経って、普天間返還を求めていた大田昌秀沖縄県知事(※90年12月~98年12月)が、橋本に「沖縄が求めているのは単純返還だ。新たな代替施設の建設が付いてくるのは承諾できない」と述べたのである。守屋は「大田知事の主張を地元の反対運動が後押しし、結局2年間(※太田の退任まで)、SACO合意は一歩も進まなかった」と記している。
合意に「ヘリコプター運用機能」の「代替施設」とあるから、「反対協」の歴史は約30年になろうか。だが98年11月の県知事選で太田は、「県内に軍民共用空港を建設する、米軍の使用期間は十五年とする」と、撤去可能な橋本総理案に代えて、海上を埋め立てて2500mの空港を作り、15年後に県民の財産とするとの公約を掲げた稲嶺恵一に敗れた。
稲嶺知事(※98年12月~06年12月)は当選1年後、空港建設地を「キャンプ・シュワブの沖、名護市辺野古沿岸域に決定した」と表明、政府もそれを閣議決定した。が、規模・工法・建設場所を政府と県の間で決めるまでに2年7ヶ月を要した。02年11月に再選された稲嶺は、環境アセスメントに臨んで今度は「県の民間飛行場部分」の「アセスメントの実施とその費用」も「国が軍用部分と共に行うべき」と言い出した。
県条例で民間部分は事業主体も費用負担も県とされていたため、国と県の主張は平行線のまま1年9ヶ月が過ぎた。02年1月に官房長から防衛局長になり、この事案の主管になった守屋に古川貞二郎内閣官房副長官から電話が架かった。古川は歴代内閣審議官を名指し「彼らには沖縄問題を解決しなくてはとの意欲がない」と批判した。後輩の審議官に質すと「一生懸命やっている」が県との押し問答で進まないと言う。守屋は「稲嶺知事になって四年も過ぎている。国がやるしかないでしょう」と古川に伝えた。
守屋が8月に事務次官になった03年の11月、沖縄視察に訪れたラムズフェルド国防長官は、住宅密集地に囲まれた普天間を目の当たりにし、「移設は五年以内に何とかしろ」と周囲に命じた。民間部分も国が行うこととなった県は、04年4月に国と「環境影響評価方法書」の協議を開始したが、今度は「方法書」を受け取らない。そんな中、8月に起きたのが沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故だった。学生らに怪我はなく、乗員3人が重軽傷を負った。
知事は、民間部分の負担やアセス方法書の受領拒否などで遅延させていたにも拘わらず、マスコミに改めて早期の普天間返還を訴え、米国政府に厳しく抗議した。加えて石破茂防衛庁長官(※02年9月~04年9月)まで、自らラムズフェルドに抗議すると言い出した。守屋はSACO合意から8年間、何もしていないのは日本であり、防衛庁長官はこれを促進すべき立場である旨を述べた。抗議は浜田靖一副長官名で行われた。
9月9日、県が漸く「方法書」を受け取り、防衛庁長官も9月27日付で石破から大野功統(※~95年10月)に代わった。早速、那覇防衛施設局がアセスメント用の櫓設置に取り掛かったところ、小船で押し寄せた「反対協」らが、櫓によじ登るは小船から岩を潜水中の作業員に投げつけるはで危険この上ない。守屋は海上保安庁に強制排除を求めたが、巡視艇から「危険なので止めなさい」と呼び掛けるだけ。
海保は「強制排除に出れば、海上なので水中に落ちた場合は人命を損なう危険がある。それにどうしてそこまでして、県民に恨まれるようなことをしなくちゃならないんだ」と、アセス作業員の人命より反対派の人命の方が大事、と言わんばかりであった。
こうしてアセス用櫓の設置すら進まないまま05年が明けた。守屋は2月28日、翌日からワシントンで開かれる「2+2」の発表文が通信社に漏れた件で大野に呼ばれ、「町村さん(※信孝。04年9月~05年9月まで外相)が・・その情報は君が流した」と守屋の名を挙げて批判したことや、細田博之官房長官(※04年5月~05年10月)も「守屋が情報を流している」と述べたことを告げられた。
その後、小泉純一郎総理の飯島勲秘書官から、漏洩元は「霞」=霞が関記者クラブ、即ち外務省だとの連絡が入り、それで官邸や大野も納得した。こうしたことの背景には、米国が01年の「9.11」を契機に国土安全保障省の創設(※不法移民取り締まりで目下話題の「ICE」を所管)と共に進めていた、世界中に展開する米軍の態勢見直し(Global Posture Review:GPR)に伴う在日米軍再編があった。
即ち、米軍再編で外務省は、横田の第五空軍司令部のグアム移転に絞るスモールパッケージを志向した一方、防衛庁(守屋)は、嘉手納以南の基地返還や普天間飛行場移設合意の見直しなどを含むトータルパッケージを考えていた。つまり「秘録」は、外務省が守屋を嵌めたと示唆している。
守屋のトータルパッケージの考えを聞いた小泉は下記のように問い、守屋は「はい、総理のリーダーシップがあれば出来ます」と即答した。
岩国は(※厚木の空母艦載機部隊の)基地を受け入れるのか? 座間の(※相模補給廠返還に)反対はないのか? 普天間は転換できるのか? 本当に日本の戦後を終わらせることが出来るんだな。
その後も国の長官(大臣)や県知事が変わるたびに主張が変遷して揉める訳だが、後の辺野古の飛行場立地案も含め「秘録」の行間からは、小泉と守屋の間に埋め立て回避を軸に信頼が醸成されていたことが読み取れる。小泉総理の親戚筋に当たる石原慎太郎東京都知事の以下の発言も、こうした外務省の動きを裏付ける。
横田に民関空港を作りたいと考えているが、外務省は米軍がそれに応じないと言っている。しかしこちらはアメリカにスタッフを派遣して、国防総省が話し合うことには了解したと知っている。外務省はどうして消極的なのか。
横田空域の返還はこの後、トータルパッケージに加わることになる。
(②につづく)







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