天孫降臨神話の聖地配列から解く皇統の秘密

「天壌無窮の神勅」
(引用:伊勢神宮

大王家は、3世紀から6世紀にわたる日本統一のプロセスにおいて、巨大な盛土構造物である前方後円墳を権威と祭祀の象徴として築造し、その文化を共有することで平和裏に地方豪族を大王家のネットワークに組み入れたと考えられます。国造に任命された地方豪族による前方後円墳の築造は、このネットワークのメンバーシップの証であり、最終的に日本列島の津々浦々に前方後円墳が行きわたることになります。

5世紀末に前方後円墳が全国に行きわたると、大王家も地方豪族も、やみくもに前方後円墳を築造する必要がなくなりました。大王家が次に目指したのは、このネットワークを発展させて、地方を「支配」することでした。男大迹王(継体天皇)による国造の筑紫君磐井の平定(527年)はその象徴的な出来事です。勾大兄皇子(安閑天皇)の治世には、大王家の直轄地である屯倉を全国に設置して経済的基盤を固めました。

ここで、大王家に必要となるのは、手にした権力を他の豪族に未来永劫奪われないために、自らの支配権を正統化する無形の絶対的権威でした。豪族連合の単なる主宰者のままでは、連合内部の多数派工作によるクーデターがいつ発生するかわかりません。そこで行われたのが、自らを神の末裔として絶対的な存在とする神格化です。

有力豪族を巻き込んだ王座をめぐる争いの末、中央集権国家を目指して飛鳥に遷都した額田部皇女(推古天皇)は、神格化の方法を模索しました。その結果、遣隋使・遣唐使を通じて中国の帝王学を導入し、北辰(天の北極)に位置する「天皇大帝」を自らの星とする道教の信仰を始めたものと考えられます[アゴラ記事]

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また、仏教を導入し、国家を鎮護するリーダーとして振る舞うことでカリズマ性を高めました。

以降の飛鳥の大王も宗教を巧みに利用して大王家の神格化を図りました。そしてその決定的なプロジェクトとなったのが、日本の民間神話を改変することで自らの祖先の神々が活躍する神代の物語を創造し、大王家の統治の正統性を揺るぎないものにしたことです。

このプロジェクトのプロトタイプが、大王の系譜と事績で構成される『帝紀』と神話や説話で構成される『旧辞』の編纂であり、その集大成が『記紀』、すなわち、天皇公認の物語である『古事記』と天皇公認の歴史書である『日本書紀』の編纂であったと言えます。

ノンフィクションを装ったフィクション

『記紀』は、日本開闢から日向三代(ニニギ・ホオリ・ウガヤフキアエズ)までの神々が活躍する「神代」と神武天皇と欠史八代から始まる天皇が統治する「人代」から構成されています。このうち、超常現象が繰り返し発生する神代の説話がフィクションであることは言うまでもありません。

一方、人代について、メインストリームの日本古代史学者は、遺物・遺構の検証に加え、『記紀』や大陸の史書を読み解く文献学的アプローチによって、天皇の系譜の真実性を【逆行推論 abduction】しています。

例えば、井上光貞氏は、神武天皇から欠史八代は仮構、応神天皇から雄略天皇は実在の可能性が高く、雄略天皇以降は実在がほぼ確実と推論しています。また、直木孝次郎氏は、神武天皇から欠史八代は直接の史実を含まない虚構の部分、崇神天皇から仲哀天皇は史実に変形を加えた部分、応神天皇以降は史実に近い部分であると推論しています。

これらの逆行推論でおよそ共通しているのは、崇神天皇の登場前、つまり神代から欠史八代は、7世紀の仮構であるとするものです。

さて、『記紀』の神代から欠史八代の物語において、大王家の権威を揺るぎないものとする上で最も重要なシーンは、アマテラス(天照大神)の孫であるニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵尊)の「天孫降臨」です。『日本書紀』の神代(下)の一書第一には次のような説話があります。

天照大神が勅していわれるのに、「もしそうならすぐわが子を降らせよう」と。まさに降らせようとするときに、皇孫がお生まれになった。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊という。特に申し上げる者があり、「この皇孫を降らせられませ」と。そこで天照大神は瓊瓊杵尊に、八尺瓊勾玉及び八咫鏡・草薙剣の三種の神器を賜わった。

(『日本書紀』講談社学術文庫)

この説話では、アマテラスが子ではなく、産まれたばかりの孫のニニギを天上(高天原)から地上(葦原の瑞穂の国)の高千穂の峰に三種の神器を携えさせて降臨させたことになっています。

直木孝次郎氏は、この「天孫降臨」の説話について、穀霊が何かに包まれて天から降りてくるという東アジア・東南アジア地域で散見される穀霊神話の改変であると論じています。このことは、大王家が民間に伝承されたフィクションに手を加えて、大王の祖先が太陽神アマテラスであるとするノンフィクションに見せかけたことを意味します。

そして皇孫に勅していわれるのに、「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、わが子孫が王たるべき国である。皇孫のあなたが行って治めなさい。さあ、行きなさい。宝祚の栄えることは、天地と共に窮りないであろう」と。

(『日本書紀』講談社学術文庫)

この「わが子孫が王たるべき国である」「宝祚(皇位)の栄えることは、天地と共に窮りないであろう」というアマテラスによる命令は、「天壌無窮の神勅」と呼ばれ、皇統の明文化された根拠になっています。ちなみに神勅で示された「子孫」に男女の別はありません。

さて、この「天孫降臨」「天壌無窮の神勅」の説話については、持統女帝(持統天皇)が早世した子の草壁皇子の子である珂瑠皇子(文武天皇)に皇位を継承するため、民間伝承を都合よく改変したという通説が存在します。

当時、大王(天皇)の孫が、後世に大王(天皇)に即位する前例があっても、次の大王(天皇)として即位した前例はありませんでした。少なくとも、大兄去来穂別(履中天皇)の崩御後に弟の瑞歯別皇子(反正天皇)が即位して以来、大王家(天皇家)は兄弟間の王座(皇位)継承を優先していたのです。

持統女帝が珂瑠皇子に皇位を継承するためには、前例を覆す根拠が必要でした。アマテラスという最高位の女神が孫のニニギを降臨させて地上世界に君臨するという「天孫降臨」「天壌無窮の神勅」の説話は、次の系図に示す通り、持統女帝を皇祖神アマテラスと同一視させるパラレルワールドでした。

図1 神代の皇統と7世紀末~8世紀の皇統の対比

壬申の乱は、天智天皇の弟である天武天皇と天智天皇の子である弘文天皇による後継者争いとされていますが、見方を変えれば、天智天皇の子(異母姉弟)である持統天皇と弘文天皇による後継者争いでした。持統天皇(アマテラス)は弟の弘文天皇(スサノオ)を排除して帝都(高天原)を支配したのです。

ニニギは、日本書紀の本伝で天孫降臨を命じたタカミムスヒの孫でもあります。この系図において天智天皇はダブルキャストでタカミムスヒを演じています。また、山の神であるオオヤマツミと海の神であるワタツミは、しばしば大自然を司る神として同一視されますが、これをダブルキャストで演じているのが、天智天皇の皇胤説がある藤原不比等です。

藤原不比等は『記紀』の実質的なエグゼクティヴ・プロデューサーであり、『記紀』は皇統の外祖父を善意ある存在として偶像化しています。8世紀以降の日本の皇統は、『記紀』のこの展開通りに、天皇家と藤原家を中心に継承されて行くことになります。

このように、ストーリー展開に意図の介在が推察される神代の説話ですが、このフィクションをノンフィクションに見せかけるためには、ニニギ-ホオリ(火遠理命)-ウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)-神日本磐余彦(神武天皇)-欠史八代と続く『記紀』の登場人物が実在した状況証拠となる聖地(ニニギの天孫降臨の地、ニニギから欠史八代に至るまでの宮と陵墓)を地上の具体的な場所に造り上げておく必要があります。

そして大王家は、実際に物語の舞台となる聖地を次々と設定していきました。具体的には、神代の日向三代については南九州の日向国(8世紀初頭に日向国・大隅国・薩摩国に分割)、神武天皇については日向国と大和国、そして欠史八代については大和国に宮と陵墓を創作したのです。

ニニギの陵墓

『記紀』では、地上に降臨した天孫のニニギの寿命には限りがある設定となっています。そのため、ニニギには陵墓が必要となります。当然のことながら、天孫であるニニギとその妻のコノハナサクヤビメ(木花開耶姫)の陵墓には、それなりの大型の陵墓を割り当てる必要があります。大型の陵墓となると、古墳時代の前方後円墳ということになりますが、通常の地域の前方後円墳は土着の豪族の墓として認識されているので、ニニギの陵墓として偽ることはできません。

そこで、大王家は、文化が大きく異なる日向国の隼人の地の西都原古墳群に位置する九州最大の古墳である男狭穂塚古墳(帆立貝形古墳)・女狭穂塚古墳(前方後円墳)に目を付けたと考えられます。男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳はニニギとコノハナサクヤビメの陵墓の可愛山陵であるという言い伝えが地元に存在し、宮内庁は陵墓参考地としています。

図2 男狭穂塚・女狭穂塚(西都原古墳群)

宮崎平野北部の西都原古墳群に位置する男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳は、実際には大型前方後円墳時代最盛期の5世紀前半(東憲章氏によれば、仁徳天皇が日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女を得た時期)に築造されたものであり、大王家のネットワークに入った隼人の有力者の墓として築造された可能性が高いと考えられます。

男狭穂塚古墳の主軸の方位は夏至日出・冬至日没の方位と直交、女狭穂塚古墳の方位は夏至日入の方位と一致しています。このように夏至・冬至の日出日入の方位に正確に直交または一致するという特徴は、同時期に築造された大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)・造山古墳・土師ニサンザイ古墳(反正天皇陵)・仲ツ山古墳(仲姫命陵)などの巨大古墳にも認められる特徴です(アゴラ記事)。

大型前方後円墳の方位を基に畿内の古墳時代を読み解く
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つまり二つの古墳の被葬者は、当時の当該地域で最高の身分をもっていた男女であったことが伺えます。南九州では、出土人骨の組み合わせから、比較的新しい時代まで父系・母系が共存する双系的社会が続いていたと考えられています。

ちなみに男狭穂塚古墳の主軸は、高良大社の方位を正確に向いています。高良大社の元神は、ニニギの母方の祖父で、日本書紀の本伝で天孫降臨を命じたタカミムスヒです。

図3 南九州の首長墓系列の変遷(柳澤一男氏原図を東憲章氏が一部改変)
「古墳時代の南九州の雄: 西都原古墳群」より引用(赤線・赤文字は筆者加筆)

西都原は、古代の宮崎平野で最も栄えていた地であり、後に日向国府や日向国分寺が置かれることになります。しかしながら、畿内から遠く離れた地に200年前に築造された古墳であるため、畿内の有力豪族にとって、ニニギの陵墓であるという設定に対する反証はほぼ不可能であったと考えられます。このことは大王家にとって好都合であったと考えられます。

さて、西都原古墳群では、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳以降、ほぼ大型古墳は築造されませんでしたが、6世紀末~7世紀初頭(須恵器TK200による編年)に突如として、古墳群の中心付近に大型の円墳である鬼の窟古墳(206号)が築造されました。ちなみに、この古墳の横穴式の岩屋にもコノハナサクヤビメに関係する[伝承]があります。

図4 鬼の窟古墳(西都原古墳群)

ここで注目したいのは、玄室に至る墓道の方位です。この方位は、大王に関わる主要な神社や大王陵に対する参拝方位として、大王家が7世紀初頭に創設したと考えられる「北から7.5度西偏した方位」です(アゴラ記事)。

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大王はこの方位を「大王にのみ許される」神聖な「天皇の方位」として差別化することにより、「天皇」へと昇華していったと考えられます。西都原古墳群に唐突に築造された円墳に認められるこの「天皇の方位」もけっして偶然ではないと考えます。

図5 北から7.5度西偏した参拝方位をもつ天皇に関係する7世紀の主要な宗教インフラ
(気比神宮・宇佐神宮・宮崎神宮・石上神宮・日前神宮・國懸神宮・熱田神宮・出雲大社・日吉大社・斉明天皇陵・天武=持統天皇陵・文武天皇陵・法隆寺)

墓の軸線が「天皇の方位」と寸分違うことのない方位を向いているという事実は、鬼の窟古墳が大王家の意思によって築造されたことを蓋然的に証明しています。鬼の窟古墳は、大王家が西都原古墳群を皇祖ゆかりの地として公認するためのランドマークであった可能性が高いと考える次第です。

天孫降臨と宮崎神宮

ニニギの陵墓を定めた大王家は、次に天孫降臨の地である高千穂の峰の場所を定める必要がありました。ここで、高千穂の峰の候補としては、①宮崎県西臼杵郡高千穂町にある高千穂峡の周辺(槵觸の峰)、②宮崎県都城市にある高千穂峰の二つが古くから挙げられていますが、私は②高千穂峰をモデルにした蓋然性が極めて高いと考えます。

その根拠は、神域と現世の境となる神が降臨する山(神奈備)のプロパティとして古代の人々が視覚性を重要視していたこと、そして何よりも、日向三代の宮と陵墓として設定されている多くの地が、高千穂峰から特定の方位に位置する歴然たる事実(後述)です。

高千穂峰は、西都原からも眺望できる霧島連山の高峰(第二峰)であり、中性火山活動のエネルギーが創出した円錐型の成層火山です。天と接合するような特異で壮大なヴィジュアルは、古代の人々が神威を感じて畏怖の念を抱くのに十分であったと考えられ、天孫降臨の聖地として申し分ないものと考えます。

ちなみに、西都原古墳群は高千穂峰から見て夏至の日出方位、逆に高千穂峰は西都原古墳群から見て冬至の日没方位にあたります。主軸がこの方位と直交する男狭穂塚古墳は、高千穂峰を強く意識して築造された可能性があります。

さて、古代の日向において、もっとも繁栄したのは国府が置かれた宮崎平野北部の西都原ですが、4世紀(東憲章氏によれば、景行天皇の子で日向国造の豊国別皇子が活躍した時期)においては、むしろ宮崎平野南部地域の方が繁栄していたと考えられています。宮崎平野南部に位置する生目古墳群では、同時期に西都原古墳群よりも規模が大きい前方後円墳が築造されており、その1号墳は大和の箸墓古墳と相似形を呈しています。

その宮崎平野南部地域において最後に築造された大型の前方後円墳が下北方古墳群に位置する船塚古墳(文献)です。築造年代は6世紀半ばとされています。

図6 船塚古墳(下北方古墳群)の平面図

この古墳には二つの重要な特徴があります。まず一つ目の特徴は、古墳の主軸が正確に高千穂峰の方位を向いていることです。このことからは、被葬者が高千穂峰を山岳信仰の対象としていたことが伺えます。

そして二つ目の特徴は、古墳の主軸に直交する方位が「天皇の方位」である「北から7.5度西偏した方位」と一致しており、その方位の先には西都原古墳群が正確に位置することです。

ここからは私の推論です。飛鳥の大王家はこの特異な場所に位置する前方後円墳の存在を見逃すことはありませんでした。大王家は、ニニギの陵墓を「天皇の方位」で遥拝できると同時にその直交する方位に高千穂峰を望むことができるこの地を宮崎平南部における聖なる地と認定したと考えます。そしてこの聖地に建立した遥拝施設が宮崎神宮です。

大王家はこの遥拝施設を太古の昔に神日本磐余彦(神武天皇)が政治を行った宮(=御屋)という設定にしました。このことが「宮崎」という地名の由来になったことは想像に難くありません。もちろん、宮崎神宮の参拝方位は「天皇の方位」と正確に一致します。

図7 船塚古墳-宮崎神宮-西都原古墳群-高千穂峰の空間的関係

聖なる二つのレイライン

次に、大王家は、宮崎神宮を起点にして、日向三代に関わる他の聖地を設定することを企図したと考えられます。実際、①宮崎神宮と西都原古墳群を結ぶ天皇の方位のラインおよび②宮崎神宮と高千穂峰を結ぶ天皇の方位に直交するラインの延長線上に位置する神秘的なスポットが日向三代の聖地として設定されています。

図8 大王家が設定したと考えられる聖なる二つのレイライン

ここからは私の推論です。まず大王家は、宮崎神宮と西都原古墳群を結ぶライン上に存在する2つの景勝地を神格化しました。

ラインの北側の延長線上には、後期更新世の溶結凝灰岩の柱状節理が造形する高千穂峡を含む美しい隆起準平原が存在します。高千穂峡の間近に位置する高千穂宮(高千穂神社)は、日向三代の宮の所在地として、日向三代とその配偶神(コノハナサクヤビメ・トヨタマヒメ・タマヨリビメ)を祀っています。また、洞窟を神体としてアマテラスを祀る天岩戸神社や天安河原は、明らかに神々が住む高天原をモデルとしています。

ただし、高天原が地上に存在するのは矛盾を来たすため、これらについては大王家公認ではなく、民間信仰の宗教インフラの可能性が高いと考えられます。

一方、ラインの南側の延長線上には、新第三紀宮崎層群のリズミカルな砂岩泥岩互層が造形する鵜戸千畳敷奇岩と呼ばれる美しい隆起波蝕台が存在します。この波蝕台の付け根に位置する海蝕洞(ノッチ)の中に存在する鵜戸神宮は、ニニギの子のホオリが海神の娘であるトヨタマヒメ(ワニの化身)との間に得たウガヤフキアエズの生誕地という設定になっています。

次に宮崎神宮と高千穂峰を結ぶライン上には、ニニギの最初の宮である霧島神宮(元宮)と最後の宮である千臺宮(新田神社)が位置します。千臺宮は平地に位置する亀の形をした高さ70mの独立丘陵であり、ニニギの陵墓である可愛山陵の候補地にもされてきました。また、ホオリの陵墓である高屋山上陵も、やや乖離があるものの、このラインの近くに位置しています。

ちなみに、コノハナサクヤビメは、富士山を神奈備山として祀る全国の浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社の主祭神として祀られています。興味深いのは、富士山を祀るこの神社の参拝方位が、富士山の方位とは一致しないことです。

実は、ニニギと共に皇統の始祖という設定のコノハナサクヤビメには「天皇の方位」(北から7.5度西偏)が適用されているのです。社伝によれば、この神社は、806年に富士山麓から現在地に遷座されて坂上田村麻呂が社殿を建立したことになっていますが、その参拝方位を見る限り、実際には7世紀~8世紀初頭に大王家が社殿を建立したものと考えられます。

図9 コノハナサクヤビメを祀る富士山本宮浅間大社の参拝方位

高千穂峰を中心とする日向国の聖地の配置

先述したように、高千穂峰が天孫降臨の聖地であると考える根拠は、高千穂峰から特定の方位に日向三代の宮と陵墓として設定されている聖地が存在しているためです。

図10 日向三代の聖地(宮と陵墓)の配置

高千穂峰から見て夏至日出の方位および冬至日出の方位には、それぞれ西都原古墳群および鵜戸神宮が位置します。また、高千穂峰から見て南西の方位には、天孫降臨直後のニニギがコノハナサクヤビメと出逢った笠狭岬に近い笠狭宮およびホオリの宮である鹿児島神宮(やや乖離が認められる)が位置します。

高千穂峰から見て真南の方位には、ウガヤフキアエズの宮である西州宮と陵墓である吾平山上陵が位置します。また、高千穂峰から見て真北の方位には、降臨を拒んだアマテラスの子でニニギの父のアメノオシホミミを祀る英彦山神宮が位置しています。

このように、日向三代と神武天皇の聖地は、高千穂峰を中心に非常に規則正しい方位に位置していることがわかります。

このことから何が言えるかといえば、大王家は天体の運行の観測を基に日向三代の聖地を綿密に設定したと考えられることです。そしてそのフィクションの設定に組み込まれた神武天皇の存在もまたフィクションである可能性が高いと考えられます。

大和国における聖地の配置

日本書紀によると、神武天皇は「畝傍の橿原」の橿原宮で政治を行ったとされ、畝傍山の東北の陵に葬られたとされています。また、日本書紀では、壬申の乱(672年)の際に事代主神の神勅に従って、天武天皇が神武天皇陵に馬や武器を奉納させたとされています。

この記録から、神武天皇の実在の可否とは別に、壬申の乱までに神武天皇陵に治定された陵墓が実在していたことがわかります。

畝傍山の東北には宮内庁が治定した神武天皇陵と綏靖天皇陵が位置していますが、江戸時代に現在の綏靖天皇陵が神武天皇陵と治定され、元禄時代に現在地に治定変えされたという経緯があります。

坂靖氏は、この綏靖天皇陵は実際には5~6世紀の築造であるとしています。また、今尾文昭氏は、現在の綏靖天皇陵が壬申の乱当時の神武天皇陵であると推論しています。私も現在の綏靖天皇陵が壬申の乱当時の神武天皇陵と考えます。その理由は参道が7世紀以前にはありえない「天皇の方位」を向いているからです。

図11 綏靖天皇陵(宮内庁治定)の参拝方位

おそらく天武天皇は、5~6世紀に築造された墳墓(現在の綏靖天皇陵)に対して、7世紀以前には存在しない概念である「天皇の方位」を向いた参道を新たに造営し、これを神武天皇陵であると確信犯的に捏造したものと考えます。天武天皇は、神武天皇陵に奉納したことで、自分こそが正統な天皇であるとする「錦の御旗」を手にしたのです。

ここで重要なのは、天武天皇自身が神武天皇の陵墓を捏造したという事実であり、このことは神武天皇の実在が非常に疑わしいことを意味します。

次に、日本書紀に示されている神武天皇と欠史八代の宮と陵墓の分布は畝傍山から西南方向の葛城地域に集中しています。斎藤忠氏は、宮が実際にそこに存在したかはもとより、陵墓とした場所が実際に墓であるのかも疑問視しています。

図12 神武天皇と欠史八代の聖地(宮と陵墓)の配置

考古学的な見地から、古代大和国のメインストリームの地域は、2世紀までは唐古・鍵、3世紀以降は纏向であることが判明しています。

崇神・垂仁・景行と続く実在の可能性が比較的高いとされる大王が巨大前方後円墳と共に三輪山の北西地域に出現したのは4世紀初頭です。このため、大和を支配する大王が3世紀以前に葛城地域で政治を行っていたことは考え難いと言え、仮に神武と欠史八代が葛城地域で実在したとしても、それは葛城地域の一豪族であり、大王とは性質の異なる存在であったと考えられます。

直木孝次郎氏は、学会では定説となっている欠史八代の和風諡号や父子継承の捏造疑惑に加えて、『記紀』の編集が進行している7~8世紀に国府のあった場所および主要な交通路に欠史八代の宮が集中していることを指摘し、欠史八代が造作されたと考えるのが妥当と結論付けています。皇后の出自は壬申の乱の論功行賞であるという指摘もあります。

宮から陵墓への方位については、特定の季節における日出日入の方位や八方位など特徴的な方位と一致しています。一致しないのは、陵墓の位置自体に疑義がある綏靖のみです。

表1 神武天皇と欠史八代の宮から見た陵墓の方位

これが現実であるか虚構であるかは検証不可能ですが、日向三代の聖地が高千穂峡を起点として同じような方法で配置されていた事実を考えれば、創作の可能性を否定することはできないと考えられます。

確かに神武天皇および欠史八代の系譜は、完全なフィクションとするには具体的であり、何らかの伝承を反映していると考えられなくはありませんが、少なくとも大王の系譜とは言い難いものがあります。

皇統の定義

この記事においては、『記紀』の神代から欠史八代に説話に認められる聖地の空間的特性を分析したところ、神武天皇および欠史八代の実在性は乏しいとする古代の歴史学分野の定説と整合的な結論を得ました。

天武・持統天皇は皇統による支配の正統性を揺るぎないものにするために『記紀』というノンフィクションに見せかけたフィクションが含まれる正史を編纂した可能性が高いと考えられます。

古代の歴史学の見地からすれば、「神武天皇からの万世一系」という解釈には大きな疑義があり、これを歴然たる事実とするのは【確証バイアス】に過ぎません。安定的な皇位継承が課題となる中、皇統の定義を確認することは極めて重要と考えます。

皇統の普遍的ルールは、7世紀に『記紀』で示された「わが子孫が王たるべき国である」「宝祚(皇位)の栄えることは、天地と共に窮りないであろう」という「天壌無窮の神勅」、すなわち「絶やすことなくアマテラスの子孫が皇位を継承していかなければならない」とするものです。

その意味で「男系男子」というのは、明治時代の解釈で照合すると結果的にそうなっているという経験則であり、天皇が7世紀に示した「天壌無窮の神勅」という大原則を制約する合理則ではないことに注意する必要があります。

天皇を憲法第一条で規定する日本の国体の大前提は、皇統を絶やさないことによって持続可能であり、皇統に強固な制約を加えることは、皇統の破壊に繋がりかねません。また「男系男子」という経験則を適用するのであれば、同時に5世孫以内という経験則(養老令の継嗣令を適用する場合には合理則)も同時に適用する必要があります。

最後に、氏姓制度に基づく豪族連合の大王制から律令に基づく天皇制へと移行する7世紀に認識されたと考えられる「天皇の方位(北から7.5度西偏)」は、皇統を議論する上で有効な空間的史料になり得るものと考えます。皇統に深く関連する聖地の配置に認められるこの方位を単なる偶然とみなす(この方位の有意性を棄却する)のは逆に無理があると考える次第です。

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