
このシリーズは、私たちの祖先が日本列島に刻んだ公然の事実を紹介した上で、歴史的な考察を加えるものです。
[大湯環状列石]
[古代出雲]
[古代出雲と纏向]
[近畿の前方後円墳]
今回は、神社による参拝スタイルが確立したとされる飛鳥時代における大王・天皇に関係する神社・御陵の参拝方位に着目しました。この参拝方位の設定は、倭国という地域社会を統治する大王が日本という国家を統治する天皇に昇華することへの正統性を知らしめるプロセスの一環であったと考えます。順を追って説明していきます。
神社成立時の参拝方位
弥生時代から古墳時代に至る日本における神に対する信仰は、太陽・神南備山・磐座といった自然の有形物を依り代とした神体に対して祭祀を行っていましたが、7世紀頃(飛鳥時代)になると、鏡・玉・剣といった人工の有形物を依り代とした神体を「社殿」に安置して祭祀するスタイルが新たに開発され、これがメインの拝礼方法となってきました。
さて、社殿という異方性をもつ長方形の構造物が建築されるようになると、必然的に参拝方位が生まれ、その正面方位に参道が配置されることになりました。
平安京や平城京など東西南北の格子状の都市構造をもつ日本の古都においては、大半の神社の社殿が真南に向けて建てられています。これは、尊い存在は陽(南)に向かって天下を治めるという中国の思想である「天子南面す」を実践したものであり、この場合に参拝者は真北に向かって主祭神を拝むことになります(図-1)。

図‐1 参拝方位を北とする神社
しかしながら、飛鳥時代以前に成立したと推察される多くの古社の参拝方位は真北に向いていません。
表‐1は、延喜式神明帳(927年)に掲載された神階二位以上の由緒ある神社の参拝方位を、主祭神・神種・神体山とともに示したものです。

表‐1 延喜式神明帳における神階二位以上の古社の参拝方位
古代律令制における神祇官が認定したこれらの神社は、平安時代初期までに朝廷によって最重要視されていたものであり、そのほとんどは奈良時代以前に成立した神社であると推察されています。
表を見ると、その参拝方位は北方に集中していますが、その多くは真北ではなく有意に北からやや西にずれた北微西を示しています。また、その他のほとんどは、特定の季節における日出日入の方位や神体山の方位を向いています。
真北を参拝方位とする神社は、皇祖神の天照大神を祀った皇大神宮(伊勢神宮の内宮)と国生み神話の伊弉諾尊を祀った伊弉諾神社、そして天照大神の食事の世話人とされる豊受大神を祀った豊受大神宮(伊勢神宮の外宮)と鳥海山大物忌神社の僅か4社のみです。素直に考えれば、他の神社は、これらの別格の神々を祀った4社を畏れたため真北を意図的に避けた可能性があります。
北微西を参拝方位とする神社の西偏角度は概ね5度~20度の範囲にあります。このうち注目すべきは、正確に7.5度西偏している神社が8社あり、そのいずれもが、人物・物を祀る日本で最高峰の格式をもつ神宮や大社であるということです。また、延喜式神明帳に記載はありませんが、人物を祀る古社である日向国の宮崎神宮も正確に7.5度西偏しています(図-2)。

図‐2-1 参拝方位が正確に西偏7.5度の北微西を示す神宮と大社

図‐2-2 参拝方位が正確に西偏7.5度の北微西を示す神宮と大社
※現在の熱田神宮の建物配置は複数の古地図と異なるため「尾張国名護屋図」を引用
これらの神社は、いずれも「神宮」「大社」と呼ばれている日本を代表する古社です。主祭神は、人物神(氣比神宮・宇佐神宮・宮崎神宮)、神器(石上神宮・日前神宮・國懸神宮・熱田神宮)、および出雲神(出雲大社・日吉大社)で構成されています。これらは、すなわち、記紀の人代に登場する大王と宝物、および大王家が一目置いた出雲の首長を祀ったものであり、記紀の神代に登場する皇祖神や天津神を祀ったものではないということです。表-2からわかるように、これらの神社には、飛鳥時代以前に建立されたと考えられる大王と神器(大王の証)を祀った神宮(ただし、神宮号の認定は明治以降)のすべてが含まれています。

表‐2 飛鳥時代以前に成立したと推定される神宮
また、併せて注目したいのが、聖徳太子によって飛鳥時代初期の607年に創建された法隆寺の参拝方位、そして飛鳥時代後半のメインストリームの天皇といえる斉明天皇・天武天皇・持統天皇・文武天皇の天皇陵である八角墳の埋葬方位も正確に7.5度西偏しているという事実です(図-3)。

図-3 参拝方位が西偏7.5度の北微西を示す寺院と天皇陵
※野口王墓古墳と中尾山古墳の図は明日香村資料の引用・加筆
ちなみに、法隆寺は、670年の火災で焼失して飛鳥時代後期に再建されたと考えられています。この説において、創建時の参拝方位は約20度西偏していたとされており、再建後に現在のレイアウトになったとされています。
また、八角墳は、34代舒明天皇から42代文武天皇まで建造されましたが、7.5度西偏して建造されたのは舒明天皇の妻である37代斉明天皇陵(=35代皇極天皇)が最初です。40代天武天皇は斉明天皇の子、41代持統天皇は斉明天皇の孫で天武天皇の妻、文武天皇は天武天皇と持統天皇の孫にあたります。天武天皇と持統天皇の子であり文武天皇の父親である草壁皇子は天皇に即位することなく早世しました。草壁皇子も祖母・両親と同様の八角墳(束明神古墳)に埋葬されましたが、その埋葬方位は真北です。さらに、天武天皇の政敵であった41代天智天皇も八角墳(御廟野古墳)に埋葬されていますが、その埋葬方位は真北と推定されます。
なお、国津神とされる出雲神は、記紀の神代に登場しますが、崇神天皇紀や垂仁天皇紀に畏れられていたことからも、大和に大王が登場する以前に実在した最も有力な国の支配者であったと推察されます。
以上から素直に考えれば、飛鳥時代の最重要宗教インフラに認められる7.5度西偏という参拝方位は、偶然の一致ではなく、大王・天皇の正統性に深く関わる方位であるという【仮説的推論 abduction】を展開することができます。以降は、この7.5度西偏の意味について検討してみたいと思います。
古代における方位の決定方法
7.5度西偏の意味を考える準備として、古代日本の人々が方位をどのようにして測定していたかについて簡単に述べておきます。飛鳥時代に方位を決定していた方法として考えられるのは、①太陽の運行の測定、②方位磁針による測定、③星の運行の測定です。
まず、①太陽の運行による測定は、地球の自転に伴って生じる太陽の動きを観測して東西線を決定するもので、【インディアン・サークル法 the Indian circle method】と呼ばれています。
北極は地軸の方位で決まる値です。地軸の運動周期は非常に長く、変化量も小さいため、インディアン・サークル法を用いれば、1日で簡易にほぼ定常とみなせる東西線を得ることができます。ただし、この方法で7.5度西偏の方位を得ることはできません。
次に、②方位磁針による測定は、既に3世紀には存在していたとされる【指南魚 south-pointing fish】と呼ばれる水に浮かべさせる磁石を利用するものです。
ただし、方位磁針の指す地磁気の方位には偏角があり、必ずしも真北を指すわけではありません。地磁気の方位は非定常なので偏角の値も時代の経過に伴って不規則に変化していることが推定されています。(図‐4)。

図‐4 西南日本での地磁気の偏角の永年変化(Shibuya 1980)
図‐4を参照すれば、飛鳥時代6世紀末~8世紀初の西南日本の地磁気は、平均で真北から10~12度西偏していると考えられます。7.5度西偏の理由とするには根拠薄弱です。
最後に、③星の運行による測定は、夜空の星が回転する中心である北極の方位を決定するものです。中心角が0.5度と大きい太陽の運行による測定よりも高精度で方位を得ることができます。
この方法は基本的に、天の北極周辺の星の回転運動を観察した上でその回転の中心を得るというものですが、星は1夜で半周程度しか回転しないため、中心を正確に決めるのは数か月の観測が必要となります。ただし、一度真北を決定できれば、他の星々の幾何学的位置関係を利用して決定することも可能となります。
古代エジプトの北極の決定方法として、①りゅう座のアルファ星と10番星が水平になった時の中間点の方位、②こぐま座のベータ星とおおぐま座のツェータ星が垂直になった方位といった学説があり、この偏差の時間的変化を利用した構造物の年代推定も行われています。前出の竹内氏も、飛鳥時代・奈良時代の古道の方位から歴史を再現する考察を行っています。
以上のことから、夜空に散りばめられた多量の星について特定の時間における空間的位置関係に着目すれば、7.5度西偏の方位を再現するのは不可能ではありません。
方位の推定精度
さて、この時代における方位の推定精度はどのくらいだったのでしょうか。
竹迫忍氏は、藤原京東部の天香具山・大官大寺と平城京の東京極を結ぶ南北線である中ツ道について、遺構の位置などの情報から北方位から約0.5度(32.7分)西偏していることを示しました。
一方、東西線の精度については、伊弉諾神宮と伊勢神宮の位置から検証することができます。伊弉諾神宮(北緯34.460度、東経134.852度)と伊勢神宮は(北緯34.455度、東経136.725度)は、経度の差が1.873度(170km)であるのに緯度の差は僅か0.005度(570m)です。素直に考えれば、この2つの神社は、大和王権・大和朝廷が意図的に飛鳥の東西に配置したと考えられます。この2社を通る線は、まさに【レイライン ley line】であり、東西線からの偏差は僅か0.2度です。

図-4 伊弉諾神宮・伊勢神宮と平城京の空間的位置関係
また、非常に興味深いことに、伊弉諾神宮と伊勢神宮を結ぶ線分の中点(北緯34.457.5度、東経135.789度)は、飛鳥の南北中心線に位置する檜隈寺(日隈寺)の西約1.3kmの地点にあり、その経度は、平城京の中央通りである朱雀大路に繋がる下ツ道と(東経約135.79度)とほぼ一致します。つまり下ツ道は、伊弉諾神宮と伊勢神宮を結ぶ線分の垂直二等分線なのです。2000年に森喜朗首相が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言しましたが、この空間的位置関係を見る限り、まさにその通りです(笑)
なお、距離を決定するには、三角測量が必要ですが、中国では既に三国時代(3世紀)には三角測量の理論が存在しており、中国と交流があった7世紀の日本でこのレイアウトを実現することは不可能ではありません。聖徳太子が遣隋使を派遣したのは7世紀初頭の600年~618年です。例えば、下ツ道の延長線上にある巨椋池の主要な島である槙島から冬至の日出方位と東西線の交点に伊勢神宮、冬至の日入方位と東西線の交点に伊弉諾神宮を座取りすれば、このレイアウトを構築することができます。
遣隋使と隋洛陽城
推古天皇の摂政の聖徳太子は、先進国の隋から文理両面のステート・オブ・アーツの情報を得るため、遣隋使を派遣しました。当時、隋の都は長安にありましたが、遣隋使が到着したのは、隋の煬帝が洛陽に605年造営開始して606年完成した最新鋭の副都、隋洛陽城でした。この隋洛陽城には、通常の中国の都城とは明らかに異なっている点がありました。それは、主軸が南北ではなく、北から7.5度西偏していたことです。

図-5 隋洛陽城
「天子南面す」の中国では、長安や洛陽を中心にいくつもの南北を基軸とする都が造営されました。しかしながら、この隋洛陽城だけは、過去の伝統にとらわれずに、北から7.5度西偏していたのです。
さらに、2013年に出土された煬帝の石棺も概ねこの方位を向いていることがわかっています。正確な測量図を確認していないので確定はできませんが、石棺に概ね平行に建築されたと考えられる上物構造物の方位が概ねこの方位と一致しています(図-6)。

図-6 隋煬帝陵遺跡公園
このとき遣唐使は、北の山(邙山)と南の水(伊闕)を結ぶ線を主軸として都市開発する「背山面水」の風水を最新の「科学」として学んだものと考えられます。宮城から定鼎門に至る定鼎門街は、皇帝が天地の秩序を地上に再現して中央に座すという「建中立極」の思想を形として示した軸線であり、この地を支配することが皇帝のアイデンティティであったのです。
おそらく遣隋使は、この建中立極の特別な方位(7.5度西偏)に大きな関心を寄せたものと考えられます。そして、夜空の星の観察によって、この方位を一意に定められることを知ります。遣唐使が観たであろうこの時代の洛陽の北空(608年2月2日0時50分)を天文ソフトの『StellaNavigator』でシミュレートしたものが図-7です。

図-7 古代洛陽の北天(608年立春0時50分頃)
※赤は西洋の星座「こぐま座」の7星
中国では、星の回転運動の中心である天の北極を宇宙の中心と考えていました。西暦500年頃まで、この天の北極に最も近い2等星がこぐま座ベータ星のコカブでした。コカブは、星官(中国の星座)「北極」の第一星である「帝」と呼ばれ、皇帝の星(帝星)として崇拝されていました。しかしながら、遣隋使が煬帝に謁見した608年には、天の北極に最も近い2等星は、現在の北極星であるこぐま座アルファ星のポラリスに代わっていました。
ポラリスは、この時代の中国で、星官「鉤陳(勾陳)」の第一星である「鉤陳一」と呼ばれ、道教の「北極紫微大帝」という最高神と同一視されていました。中国の皇帝である隋の煬帝もポラリスを自分の星と認識していたはずです。
ここで、ポラリスが隋洛陽城の主軸方位、すなわち北から7.5度西偏するのは、ポラリスが、「太子」と呼ばれるこぐま座ガンマ星のフェルカド(3等星)と水平になるときです。そして、このとき「鉤陳一」(ポラリス)の真下に位置する5等星が「天皇大帝」と呼ばれる星です。天皇大帝は、道教において北極紫微大帝の兄です。
遣隋使は、当然のことながら、この方位を神聖なものと考え、帰国後大王に説明したものと考えられます。おそらく大王は、中国の皇帝の星である鉤陳一ではなく、天皇大帝に興味を持ち、それを自分の星と設定したと考えるのが蓋然的です。天武天皇は自らを「天皇」と名乗ったからです。そして、北から7.5度西偏した方位を、天皇にのみ許される正統な「天皇の方位」としたと考えられます。
諏訪春雄氏は「天皇大帝」は、紀元前3世紀ごろの道教の文献に登場し、『春秋緯合誠図』に「天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する」という記載があることを紹介しています(「諏訪春雄通信 28」)
この文章から読み取れるのは、「天皇大帝」は陰陽道における陽(光)の象徴であるということです。このことは天皇が太陽神の子孫であるという設定と一致します。また、「紫宮中に居りて四方を制御する」は、天皇が宮中で行う重要な祭祀である四方拝そのものです。
以上要するに、北から7.5度西偏した方位について遣隋使の報告を受けた日本の大王は、これを「天皇にのみ許される方位」としたと考えるのが蓋然的です。そして大王は、このときを機会に、自分を含めた過去のすべての大王に「天皇」という称号を与えたのです。その結果、天皇を祀る神社、天皇の証である神器を祀る神社、天皇の登場前に国を支配した出雲勢力を祀る神社という天皇の正統性に深く関わる神社の参拝方位を北から7.5度西偏した方位に設定したと推察する次第です。
ここで、日本で最初に天皇号を名乗ったのは天武天皇とされていますが、実際にはその母の斉明天皇も天皇号を名乗っていた可能性が高いと考えます。斉明天皇陵の埋葬方位が7.5度西偏しているからです。また、斉明天皇は、皇極天皇が重祚(退位した天皇が再び即位)した天皇ですが、「皇極」という漢風諡号には、皇帝と北極の星が同一の存在であることを正式に宣言したという事績が反映されている可能性が高いと考えます。さらに、斉明天皇は、四方拝をはじめて行った天皇でもあります。私は、斉明天皇こそ、日本の宗教文化の源流を創造した極めて重要な天皇であると考えています。また別記事で論じたいと思います。
また、延喜式神明帳に不記載であるにも拘わらず、重要な古社として今回取り上げた宮崎神宮については、古事記の天孫降臨神話に深く関係していると考えています。これについても別記事で論じたいと思います。
なお、天皇とは直接関係がない法隆寺の参道が7.5度西偏している理由は不明ですが、こじつけて考えれば、遣隋使から最初に聖なる方位の情報を得た聖徳太子に敬意を表したのかもしれません。現在の法隆寺のレイアウトを決定したのは聖徳太子ではありません。いずれにしても7.5度西偏を天皇に対する参拝方位とする伝統は飛鳥時代を最後に終焉しました…
…という言葉で締めようと思っていましたが、遠く離れた後の時代に、この参拝方位が密かに復活していた事例を見つけてしまいました。それは、この2つの天皇陵です(図-8)。

図-8 北から7.5度西偏する天皇陵の事例
本当に驚きましたが、これは偶然とは思えません。私以外にもこの方位の秘密に気付いた人物が、皇室の周辺にいたということです。
この『アゴラ』記事をお読みいただいた方にお願いです。このことは絶対誰にも口外しないで下さい。今さら言っても遅いのですが、私たちは知ってはならない皇室の秘密を知ってしまったのかもしれません(笑)







コメント